凶弾は生命だけでなく、安倍氏の肉声から歴史の教訓を得る機会も奪った。
曽我氏
生命を賭す覚悟
安倍晋三氏ほど、太く短く危機の時代を駆け抜けた政治家は、日本の現代政治史にはいまい。
しかも、2度にわたり政権を担い憲政史上最長の首相在任日数を記録する一方で、体調不良による退陣も2度を数えた。栄光と挫折の両方を経験し、政権の功罪をはじめ、評価はなおも賞賛と指弾の両極に分かれる。疾風怒濤の毀誉褒貶の激しさもまた、他に類をみない。さらに、保守の原理主義者と現実的な機会主義者との両様の顔を併せ持ち、世間に氾濫する単色の「安倍晋三論」を拒絶するかのようである。
有言実行の旗を立てることを旨とした安倍氏らしく、この月刊「文藝春秋」にも夥しい言葉と肉声が残されている。それに基づき、時に筆者の取材体験を加味しながら安倍氏の実像を探ってみたいと思う。
ただ、何よりもまず痛感したことがあった。その「太く短い」道程の底流にはいつも、切迫感に満ちた死生観があったのではないか。それは退陣後の今年初めに父・安倍晋太郎氏に触れたインタビューと、首相候補に躍り出たほぼ20年昔に祖父・岸信介氏を回顧した手記に明らかである。
「はや私も67歳。思えば父の安倍晋太郎はおよそ30年前の1991年5月、67歳でこの世を去っています。1986年に清和会会長に就任し、次期総理と目されるなかでの病死でした。いよいよ、あの時の父の年齢を超えていくのかと、感慨深いものがあります」(2022年2月号 「安倍晋三 独占インタビュー 危機の指導者とは」)。
「もの心ついた頃、60年安保で町では『岸をタオセ! 岸をコロセ!』と私の祖父の岸信介総理の名前が叫ばれていたのを覚えています。実際に祖父は、安保条約改定直後に刺され、幸い急所を外れたものの、大怪我を負いました。/ところが祖父が入院していた慶應病院に見舞いに行くと、悠々としていました」「そういう姿を見て育った私は、政治家が命がけになる姿に間近に接する機会に恵まれていた」(05年1月号 「吉田松陰の言葉」)。
安倍元首相
参院選遊説中の7月8日、凶弾に倒れた安倍氏の運命を思うとき、歴史の符合と相違、そして手記の持つ自己予見性には息を呑むほかない。
世論の大勢に抗してでも信念を貫きたい政治家には、生命を賭す覚悟が必須になろう。祖父との記憶から安倍氏はそう自分に言い聞かせていたのだ。さらに、首相の座を去ったとはいえ、憲法改正などやり残した目標を岸田文雄政権に遂げさせるべく、自民党の第一派閥の長である自分の出番を期していた。今一度父の無念を思い起こしたのは、その局面意識からだったに違いない。
だが、63歳の年に首相官邸で凶刃を受けたが一命をとりとめた祖父とは違い、安倍氏は凶弾により路上で命を奪われ、父と同じ享年67でこの世を去った。
ウクライナ危機に伴い「米ロ新冷戦」の時代の様相が深まるなか、日本の安全保障体制の再構築論議が本格化した矢先の突然の退場である。
覚悟のうえだったとしても、無念さはいかばかりだったか。
言論界のキラーコンテンツ
それにしても、改めて手記を読み返すと、優れて早熟な保守政治家だったことが分かる。いや、早熟でなければならなかったというべきか。
38歳で1993(平成5)年の衆院選で初当選して以来、国政における実働は30年に満たない。しかも、49歳の若さで小泉純一郎首相により自民党幹事長に抜擢されるや、首相候補へと一気に駆け上がり、安倍氏はその後、計8年8カ月の間、日本国家のリーダーだった。
とりわけ2度目の政権は衆参両院で圧倒的な多数を制し、自民党と霞が関に対する官邸主導の強靱さと相まって「一強」と称された。国家安全保障会議(NSC)創設と特定秘密保護法、集団的自衛権の行使容認と安保法制、大胆な金融緩和策を柱とする「アベノミクス」と2度にわたる消費税率引き上げ。次々と時代を画する制度改革を果たしたが、一方で森友・加計疑惑をはじめ長期政権の病理が次第に露わになり、政権批判も長く激しく続いた。
とまれ、実働期間の3分の2にあたるこの約20年間、「安倍政治」が日本の政界・言論界のキラーコンテンツだったことは否めまい。
ただ、その真髄は既に、最初期のインタビューによって明かされていたのである。
2003年2月号の「特集 失わなかった10年 拉致解決に岸信介の遺伝子」(文・評論家遠藤浩一)と同年8月号の「『宰相の器』石原慎太郎連続対論 『宦官国家』との決別のとき」の2つがそれだ。
金正日は交渉相手たり得る
まずは、国家主権や国益を前面に掲げる保守主義者の顔である。
安倍氏は遠藤氏に対し「拉致問題を三面記事的に扱うのは間違いですね。国家機関によって、国家的な目的を果たすために、日本国民が連れ去られてしまったのであって、これは、まさしく主権の問題であり、国民の生命と財産を守るという、わが国国家に対する挑戦です」とした。
同時に、旧来の融和外交に挑戦する姿勢も際立つ。「ところがこれに対して『キミたちが知らないところで外交努力をしているんだから、余計なことはしないほうがいい』という囁きが常にあった。でも、そういう“外交努力”では、拉致問題は一歩も前進しなかった」と語った。
一方で、現実主義的な思考法も顔を覗かせている。安倍氏は前年、小泉首相の訪朝・日朝首脳会談に随行していたのだが、北朝鮮の出方に関して「合理的な判断をする人間であれば、まず暴発はしない。『暴発するぞ』というカードをちらつかせることはあっても、本当に暴発する可能性はそれほど高くはない」と指摘したうえで、こう語った。
「金正日総書記と会って、いつも論理的なしゃべり方をする人で、合理的な判断のできる人という印象を受けました」「少なくとも交渉の相手たり得るという認識は持ちました」
先入観を排し、懐に飛び込んで合理的な交渉の糸口を探る。後に首相としてロシアのプーチン大統領やトランプ米大統領らを相手に安倍氏が試みた「首脳外交」の萌芽がここにみてとれよう。
現実感覚は「岸政治」を反面教師とする姿勢にも濃厚に滲む。
石原氏に対し「開戦時の内閣の一員であった祖父に国民はアレルギーを持っていたと思います。しかも、国民とコミュニケーションを取ろうという意識がやや希薄だった観は否めません。結果として安保改定が国民の非難を浴び、それがトラウマとなって以降の政治家は、国家とか安全保障という言葉自体をことさらに避けるようになってしまいました」と総括した。安保改定の実績を評価するだけでなく、改憲論議に及ぼしたマイナス面も見逃さない。単純な戦前回帰型の保守政治家の枠に収まらないことは、ここに明らかだろう。
むろん、安倍氏は、公約をもとに二大政党が政権を奪い合う「時代の子」でもあった。平成初期以降の政治改革は、迅速な意思決定をめざす政治主導と政権交代可能な二大政党制の構築を目標とした。ただ、安倍氏の場合、それがリベラル勢力や野党を全面否定して退ける過激性にもつながっていた。
石原氏を相手に、安倍氏は初当選時に「自民党は野党でした」と回顧し、翌1994年に社会党の村山富市氏を首相に担いだ自社さ連立政権の誕生について「サーカスみたいなことをやった」と喝破した。「政権に戻り、ポストを奪還したことで満足するような弛緩した空気が自民党の中にもあった」とも断じた。
さらに、海上保安庁の巡視艇に北朝鮮の工作船が銃撃戦を仕掛けた映像が放映されたことを受け、「一部のマスコミの中にはまだ亡霊のように残っていた共産主義・社会主義に対する幻想を完全に打ち砕いたと思います」と切って捨てた。
岸信介はプラグマティスト
さりとて、ただ保守勢力に引きずられるだけではない。既に1度目の政権の際、ジャーナリストの櫻井よしこ氏の求めに対する答えがそうだった(07年5月号 「激突インタビュー 『総理、小泉流を捨てられますか』」)。
櫻井氏は憲法改正の「第一歩」である国民投票法案から公務員の地位を利用した政治的活動に対する罰則規定が外されたことに関し「あまりにも野党側に譲歩しすぎた内容」と批判したが、安倍氏は「憲法に関する議論というのは、なるべく広範な賛意を得て成立をさせなければならない」と押し返した。
さらに櫻井氏が、安倍氏が祖父・岸氏の戦争責任を国会で認めたことを「東京裁判の肯定につながる。安倍総理の説かれる戦後体制からの脱却にもそぐわない」と指摘したのにも「(祖父は)開戦時の閣僚として重い責任を感じていたと言っていました」「まあ、私の祖父は非常にプラグマティストでしたから、私に対しても、結果として日本をよい方向に変えていくことを最も望んでいるんだろうと思います」とかわした。
安倍氏にとり左派はもちろん打倒の対象だったが、右派もある意味では制御の対象だったということか。
作家はその処女作に全てがあるとよく言われるが、政治家もまた、そうなのかもしれない。
保守勢力の過去の限界を踏まえたうえで国益を最優先する外交・安全保障政策のバージョンアップを期す改革性。後に官邸主導の体制づくりへともつながる「首脳外交」への思い。時に現実と折り合って最善の道を探る老練さ。政権選択選挙に向け保守とリベラルとで敵味方の峻別を図る意識と、やがて「民主党政権の悪夢」といった全面否定に至る攻撃性と排他性。それら安倍長期政権において現出する特徴の数々は早々と用意されていたとも言えるだろう。
ただ、結論を急ぎ過ぎてはなるまい。安倍氏は2006年の自民党総裁選で「ポスト小泉」の座を射止めた。1度目の首相体験は、いかなる意味を安倍氏に残しただろうか。
首相への階段を一気に駆け上る頃の手記を読み返すと、使命感の強さと一種の潔癖性は痛いほどである。
歴史問題の謝罪は終えるべき
小泉政権末期の幹事長代理時代には、評論家・宮崎哲弥氏に対し、靖国参拝や対中関係、さらに1995年の「村山談話」踏襲の是非に関し直截に語った(05年9月号 「ポスト小泉の資格を問う」)。
靖国参拝については「何度も申し上げていますが、次の首相も次の次の首相も、静かにお参りするべきだと思います。しかし、総裁選の出馬の公約とする性格のものではないと思います。ただ静かにお参りして、参拝したその総理や日本が決して軍国主義の道を歩まず、地域の平和にも責任を果すことを示す。そうすれば、自ずと信頼をかち得ることができるでしょう」と語った。まさに正面突破策である。
質問が中国との摩擦が高まる可能性に及ぶと、「中国との友好関係が日本の国益に合致することは間違いありません。しかし、この論理が逆転して、友好関係を維持することが目的になってしまっていたのが、これまでの日中の姿だった」と反論し、潜水艦の領海侵犯や人権蹂躙など中国の姿勢を批判したうえで「主張すべきことは正面から言うべきなのだろう、と思います」と断じた。
さらに「村山談話」など日本が積み重ねた謝罪の見解を引き継ぐか否かについても「私は基本的には、もうおわびの表明はしなくてもいいかと思います。過去の歴史に関しては謙虚であらねばならないが、一国のリーダーが謝罪をくり返す必要はないでしょう」と明言した。
自らの出処進退や国家的な危機への対応が問われると、言葉はさらに先鋭化する。
自身も認めた「情に弱い」
04年9月号の「保守再生のため幹事長を辞す」は表題通り、小泉政権が同年夏の参院選で改選の51議席を割り込んだ責任をとっての言ではある。だが、候補者の公募制度を導入する「党改革」に加えて、いわば保守の心棒を自民党に打ち込む姿勢を表明したのが安倍氏らしい。
「党としても、私個人としても、憲法改正とそれに先立つ教育基本法の改正は、大きな課題です」
「私の考える保守主義とは、現在・未来と同時に、過去に対しても責任をもつような生き方です。過去に生きていた人達の声なき声や願いも含めて政治をしていく」
首相に就く直前、北朝鮮がテポドン2号を含む7発のミサイルを発射した際には「この国のために命を捨てる 『闘う政治家』宣言」(06年9月号)を発表した。
「今度の国連の外交はまさに我々がリードし、主導権をとる外交にしなければならないと考えました」
「最終的に安保理決議の場で『全会一致』という結論を得たことは、大きな外交的勝利であったと思います」
ただ、この「宣言」の読みどころは末尾の自己規定にある。著書「美しい国へ」(文春新書)で書いた「闘う政治家」との文言に対する反響に触れたうえでこう語った。
「私があたかも好戦的な政治家であるかのようなイメージを抱いた方もいるのではないでしょうか。/しかし、政治家というのは、つねに時代の先頭に立つ覚悟を持たなければならないし、また国益を守るための盾となる覚悟も持たなければなりません。時代を切り開いていこうとすれば、時には強い風圧を受けることもありますが、それをはねのけるだけの信念と意志が求められるのは当然のことでしょう」
風圧を覚悟して保守の旗を立てて有言実行を期す。その姿勢が首相の第一条件と考えていたのだろう。ただ、一方でこの頃、「情に弱い」弱点も既に垣間見えていた。
エッセイスト・阿川佐和子氏による自民党総裁候補連続インタビューである。今にして思えば、その06年10月号の「最高権力者は酷薄さが必要だ」との表題は、皮肉に響く。
阿川「逆に、小泉さんと安倍さんご自身とで、ここが違うなと思うのはどこらへんですか」
安倍「どうでしょうか……。/小泉総理は、内面はわかりませんが、非常にスパッと割り切ることができるんだろうと思いますね」
さらに阿川氏は突っ込む。
安倍「ええ。私は多少の……」
阿川「ぐらつく?」
安倍「えー、割り切りにくくて後を引くところがあるかもしれません(笑)」
阿川「え、後を引くって? 根に持つってタイプですか」
安倍「いや、ですから、割り切るというのは、切って捨てていくというところもあるということで」
聞き手の巧みな話術に乗せられた形で「切り捨てられない」情の強さを認めてしまっている。
果たして第1次安倍政権は、1年の短さで倒れた。郵政民営化を巡る造反組の自民党復党を急いで内閣支持率は急落、閣僚や自民党幹部らの失言・不祥事が相次ぎ、「お友達内閣」との批判を呼んだ。「消えた年金」問題が政権の混乱に拍車をかけて07年夏の参院選で惨敗し衆参はねじれ、体調不良を理由に安倍氏は首相を辞任した。
「辞任の真相」は衝撃的だった
08年2月号に載った手記「わが告白 総理辞任の真相」は、今もなおその鮮烈さを失わない。退陣から半年後に辞任に至る経緯と悔恨を赤裸々に記しているが、「潰瘍性大腸炎」という持病を明かし、症状の悪化と揺れ動いた心境を詳述したことは衝撃的だった。まさに安倍氏が記したように「政治家にとって、病気はタブーであり、病名や病状が公になれば、政治生命を危うくする」のが政界の常識だったからである。
「機能性胃腸障害とは別に、ウィルス性の大腸炎に罹ってしまったのです。それ以後、激しい下痢が止まらなくなりました」
「(アジア太平洋経済協力会議・APECからの)帰りの政府専用機の中で辞任について初めて真剣に考えました。疲労はピークに達しており、その日、午後2時からは所信表明演説が予定されております。本来なら、少しでも睡眠をとっておきたいところですが、機内では一睡もできませんでした」
「集中力も続かず、ついには演説の草稿の文書を3行読み飛ばしてしまいました。それは『来年の洞爺湖サミットに向けて、リーダーシップを発揮してまいります』という箇所だったのですが、非常に大きな衝撃を受けました」「あの3行の読み飛ばしは(辞任の)決定的な要因のひとつだったと思います」
敢えてタブーである難病の真実を明かすことで安倍氏なりの「禊」を期したのかもしれない。だが、一方で政権の「失敗」については、なお受け入れられずにいる。
08年2月号「わが告白総理辞任の真相」
失敗に私は育てられた
保守的諸改革を巡り戦線を拡大し過ぎたとの批判に対しては「戦略的に優先順位をつけていく老獪さが必要だったかもしれません。だが、悔いはありません」と言い切った。さらに「お友達内閣」との批判に対しても「同じ志を持つ人たちで官邸を固めていくこと自体は当然だと思うのです」と抗弁した。
だが、その言葉とは裏腹に安倍氏は自己の失敗体験を検証し始めていたのだろう。
当時、その一端を耳にしたことがある。筆者は、麻生太郎首相が09年の衆院選で敗れ民主党政権の誕生を許した直後からの3年半の間、定期的に安倍、麻生両氏と会って話を聞いていた。
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source : 文藝春秋 2022年9月号