「力の信奉者」という本質を見誤った日本の悲劇。(構成:栗原俊雄)
保阪氏
日露関係の近現代史の底流
今回のロシアによるウクライナ侵略を受けて、日本はアメリカ主導の対ロシア経済制裁に加わっているが、その対応は後手に回っている。
そんな中、ロシアは日本に揺さぶりをかけてきた。3月下旬に北方領土交渉を一方的に停止し、同地域での軍事演習を開始。4月上旬にはロシアの元上院議長で左派政党「公正ロシア」のミロノフ党首が「北海道のすべての権利はロシアに属する」との一方的な見解を発表した。
安倍晋三元首相はプーチン大統領と27回もの首脳会談を行った。その27回目、2019年9月にウラジオストクで開催された首脳会談で安倍首相は「ウラジーミル、君と僕は同じ未来を見ている」と語りかけた。ファーストネームを呼んで親密さを強調し、「両国関係には無限の可能性がある」とも述べた。こうしたロシアへのすり寄りは、今回すべて水泡に帰した格好だ。
日本の近現代史を振り返ると、ロシア(ソ連)との関係において、「つねに日本が自国に都合のいい情勢判断をして、ロシアに甘い幻想を持っては裏切られる」という失敗の地下水脈が流れていることが窺える。
私はかつてソ連崩壊時にモスクワを何度も訪問し、公開された資料を収集すると同時に、旧ソ連の政治エリートたちにインタビューする機会を得た。そこでひしひしと感じたのは、ロシアは日本の甘い姿勢を見逃さず、周到にくさびを打ち込んできたという事実だ。情報活動、経済的な権益、共産主義思想などが主たるものだが、最大のくさびは「領土問題」である。日露両国の外交関係が始まってから一貫して存在し続け、今なお解決されていない。
今回は日露関係の近現代史の底流にある地下水脈を見てみたい。
プーチン大統領
日本にやってきた最初の列強
近現代における日露関係を、4つの時代区分に大別してみよう。
第1期は江戸時代末期から明治8(1875)年の「樺太・千島交換条約」まで。南下してきたロシアに日本が初めて直面し、必死に食い止めた時期にあたる。
次いで第2期は明治8年から昭和20(1945)年までの部分である。日本は帝国主義国家として台頭し、極東の権益を巡って軍事大国でもあったロシアと衝突を繰り返す。ロシア革命後は共産主義思想が日本に流れ込み、新たな脅威となった。
第3期は日本の敗戦から1991年のソ連崩壊までの東西冷戦期。北方領土問題を巡ってソ連との交渉を繰り返したが、結局どれも実を結ばなかった。第4期はそれ以降、現在までである。
まずは第1期から見て行こう。
意外と見落とされているのは、日本に最初に通商・開国を求めてきた列強はロシアだということである。寛政4(1792)年、ロシア使節ラクスマンが根室に来航し、日本人の漂流民、大黒屋光太夫らを届けるとともに、通商を求めた。さらに文化元(1804)年には外交官レザノフが長崎に来航し、開港を要求した。だが幕府が冷淡に拒絶したためロシア側は怒り、樺太や択捉島などを攻撃し、日露関係は悪化した。
ロシアは南下を続け、嘉永6(1853)年7月、海軍中将プチャーチンが長崎に来航し開国を要求した。アメリカのペリー来航の1カ月後のことだが、ペリーの出航を知ったロシア大公から命じられて急遽、来日したものだ。その翌年、幕府は再来航したペリーの求めに応じて日米和親条約を結び、さらにはロシアとも和親条約を締結し、200年以上続いた鎖国体制は崩壊した。
日露和親条約では箱館、伊豆下田、長崎の開港と、長年の懸案だった国境線が確定された。その結果、千島列島の得撫島以北はロシア領、択捉島以南は日本領とされたが、樺太は「両国人雑居地」とされ、明確な境界線はなかった。
その後、ロシアはクリミア戦争(1853~56)に敗れて欧州方面での南下が困難になったため、極東での勢力拡大に一層力を入れた。樺太全島の領有を目指し、明治2(1869)年8月には、樺太南部に千人以上を派兵するなどした。一方の日本は、幕末の動乱を経て明治新政府が発足したばかりで、南下するロシアに対処する余裕はなかった。
そして明治8年、樺太・千島交換条約が締結される。樺太全島をロシア領として認める代わりに千島列島(占守島から得撫島までの十八島)を日本領土とするという内容だ。詳しくは後述するが、日本政府は、「北方四島」はこのときの千島列島の中には含まれないとしている。ここに北方領土問題の起点があった。
樺太に比べ千島列島の経済的価値は低く、日本にとっては分の悪い条約だった。だが、当時の日本の国力では広大な樺太を開発・経営する力もなかった。北方においてはまず蝦夷(北海道)の開発を固めつつ、ロシアの南下政策に備えるという、現実的な選択であった。この時代の日本はひたすらロシアの圧力に耐え、国内で力を蓄えることに専念していたのである。
樺太(現在のサハリン州)の町・ユジノサハリンスク
日露戦争と日露協約
第2期に入ると、新興帝国主義国家として力を蓄えた日本が、ロシアと対峙する。両国とも朝鮮半島を「利益線」とし、勢力圏に収めようとしたため、政治的・軍事的に衝突するのは必然であった。その帰結が日露戦争(明治37~38年)である。日英同盟によってイギリスの支援を受けた日本は、ロシアの艦隊に壊滅的な打撃を与えた。その後アメリカの仲裁によって講和し、日本は樺太の南部の割譲と沿海州の漁業権をロシアに認めさせた。
アメリカが日本に有利な講和を斡旋したのは、ロシアが満州の権益を独占することを警戒していたためだ。伝統的にアメリカは中国市場の「門戸開放」を狙っていたのだが、ロシアに勝った日本が満州での勢力を拡大すると、次第に日本への警戒を強めた。アメリカで日系人排斥運動が激化したのもこの頃だ。
すると日本はロシアと接近し、明治40~大正5(1916)年の間に4次に渡る日露協約を結んだ。協約の中には秘密条項が含まれ、外モンゴルにおけるロシアの権益と朝鮮半島における日本の権益を相互に認め合った。近代史上初めて日露が長期間接近した時期だったのである。
だが大正6年にロシア革命が起こると、事態が一変する。ソ連政府が秘密条項を暴露して破棄したのだ。
レーニン像
共産主義がロシアに根付いた理由
ここで視点を変えて、なぜロシアで共産主義革命が起きたのかを考えてみたい。ソ連崩壊後に私がロシアに取材に行って気付いたのは、「ロシア人には伝統的に強い指導者を希求する国民性がある」ということだった。これは旧ソ連政府の人々も、日本のロシア専門家たちも一様に口を揃えて指摘する点である。いわば「市民」の概念が希薄なのである。
共産主義体制は強権的な独裁体制であり、「力の信奉者」との親和性が高い。だからこそ、ロシア人の国民性に合致したのだと理解できる。そのように考えれば、ソ連崩壊後に民主主義が導入されたものの短期間で終焉し、プーチンによる強権的な独裁体制が20年以上続いていることにも納得が行く。プーチンはスターリンを範としているのである。
革命後のソ連は、帝政ロシア時代から続いていた領土的拡張主義に加え、新たな拡張主義を選択する。コミンテルンの方針に基づき、共産主義を国際社会に広げるという思想的拡張主義を進めて行くのだ。
日本でも大正デモクラシーの時代、知的エリートたちはこぞって共産主義運動に身を投じたが、それは日本の支配者層にとっては脅威だった。大正14年には治安維持法が成立し、昭和に入ると国家が徹底的に共産主義思想を弾圧した。その弾圧の激しさをみると、いかに日本の支配者層がソ連および共産主義を恐れていたかがわかる。
日本は治安維持法の成立とほぼ同時に日ソ基本条約でソ連を承認したが、共産主義は天皇制と相容れない。日本は同じ反共のナチス・ドイツと接近し、昭和11年、日独防共協定を締結した。国際情勢が目まぐるしく変化し、条約の成立と破棄が繰り返される中、日本はソ連への向き合い方を見誤って行く。
そして日ソは再び、大陸で「利益線」を巡り軍事上の争いを起こした。昭和14年、満州とモンゴル人民共和国との国境線をめぐって「ノモンハン事件」が勃発する。モンゴルはソ連に続いて世界で2番目の共産主義国家となり、ソ連の衛星国となっていた。ここで日本の関東軍は約2万人の死傷者を出すなど、日本陸軍史上最大の損害を出してしまう。
ソ連への脅威を高めた日本は、ドイツとの防共協定を同盟に格上げすべく交渉をしていた。ところがノモンハン事件の最中である昭和14年8月、ドイツはソ連と不可侵条約を締結したのである。日本側はこれを全く予想しておらず、時の平沼騏一郎首相は「欧州情勢は複雑怪奇」との台詞を発して政権を投げ出した。
同年9月、ドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦がはじまる。日本の陸軍首脳はドイツの英本土上陸が実現すると信じ、ドイツとの関係強化に動く。そして昭和15年9月、日独伊三国同盟が締結された。
三国同盟を強力に推進したのは陸軍と外相の松岡洋右であった。さらに昭和16年4月には日ソ中立条約を結んだ。松岡は三国同盟にさらにソ連を加えた四カ国協商体制で、米英などの連合国に対峙する構想を抱いていたのだ。
日本、ことに陸軍にとってソ連は最大の仮想敵国であった。そのソ連となぜ中立条約を結んだのか。連合国は民主主義、資本主義の体制である。一方、四カ国側は対照的に全体主義という共通点があった。松岡はそこに着目したのであろう。ところが同年6月22日、ドイツが不可侵条約を破ってソ連領内に攻め込み、本格的な独ソ戦が始まった。松岡の四カ国連携構想はあっさりと空中分解した。
外交戦略の再編を迫られた日本は、同年7月2日、「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」を御前会議で決定した。この要綱では「北方問題の解決」として、「独『ソ』戦争の推移帝国の為有利に進展せば、武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す」とされた。つまり戦況次第では、ソ連と結んだばかりの中立条約を反故にし、ドイツと呼応してソ連に攻め込む計画を示したのである。
対ソ戦準備として、関東軍は「関東軍特種大演習」(関特演)を実施した。約50万人の兵士を召集し、満州国のソ連国境付近に配置した。名目は演習だが、極東のソ連軍が同年8月上旬までに弱体化した場合はソ連に攻め込むことを予定していた。だがソ連軍の弱体化は見られず、北方侵攻は持ち越された。
ソ連に接近した陸軍エリート
その後、太平洋戦争末期の敗色の濃い中で、大本営参謀たちはソ連を頼りにした終戦工作を模索するようになる。
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source : 文藝春秋 2022年6月号