ガダルカナル80年目の教訓

大木 毅 現代史家
野中 郁次郎 一橋大学名誉教授
ニュース 社会 昭和史 歴史
「戦力の逐次投入」はなぜ起きたのか。
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野中氏(左)と大木氏(右)

日本軍の約2万人の戦死者

 大木 いまから80年前の1942(昭和17)年8月、オーストラリア大陸の北東にあるソロモン諸島の1つ、ガダルカナル島で、日本軍とアメリカ軍との激しい戦闘が始まりました。翌年2月まで半年間、続いた島の争奪戦は、日本軍の敗北で終わっています。

 野中 本誌7月号で大木さんと検証したミッドウェイ海戦の敗北も大きな分岐点でしたが、太平洋戦争の帰趨を決したのは、陸上で初めてアメリカ軍と戦い、そして大敗を喫した、このガダルカナルの戦いだと私は見ています。

 大木 野中さんを中心とした研究グループが、日本軍の6つの敗戦を分析した『失敗の本質』では、野中さんご自身がガダルカナル作戦の章を執筆しています。ここで指摘された「戦力の逐次投入」――手持ちの戦力を一気に投入せず、小出しに使った結果、失敗する――は、いまでも日本型組織に多く見られる問題として、広く知られています。

 野中 それに加えて情報の軽視、指揮命令系統が統合されていなかった点などを指摘しました。日本軍は「失われた30年」でイノベーション力が劣化した日本型組織の典型ですから、これらの問題を改めて検証することは、今も意味があるのではないでしょうか。

 大木 私も過去の失敗を直視し、現在につながる問題を考えるために、軍事史を研究しています。

 野中 忘れてはならないのはガダルカナル島での日本軍の約2万人の戦死者のうち、多くは補給のない状態での餓死や病死だったということです。このような悲劇を繰り返さないためにも、私たちはこの失敗に正面から向き合う必要がある。これは戦中派としての私の使命感です。

 大木 では、さっそくガダルカナル戦役を分析していきましょう。

惰性で進出した日本軍

 野中 ガダルカナルの戦いを端的にいえば、島にあった飛行場の争奪戦です。四国の3分の1ほどの大きさの島ですが、ソロモン諸島では最大で、飛行場の建設に適した平坦な土地があった。

 この島で先に飛行場を建設したのは日本の海軍で、1942年7月に約2600人の設営隊を送り込みました。それが完成直前に上陸してきたアメリカ海兵隊に奪われてしまったのです。

 大木 このとき守備にあたった海軍の陸上部隊、海軍陸戦隊はおよそ250人しかいませんでした。一方、アメリカ海兵隊は約1万1000人と圧倒的な兵力差でした。

 野中 ガダルカナル島は日本の最南端の拠点ラバウルから1000キロも離れています。防衛も補給も容易ではない地に、なぜ進出したのか。そこが最初の問題点です。

 大木 どうやら確固たる戦略構想があって、あの島に基地を作ろうとしたわけではないようです。厳しい表現になりますが、惰性で進出してしまったように思えてなりません。

 野中 そもそも当初、日本側にはガダルカナル島へ進出しようという意図はなかったのですよね。

 大木 はい。それは開戦からの経緯を見れば分かります。山本五十六ら連合艦隊サイドは、真珠湾攻撃のあと、ハワイ占領の足がかりとして、ミッドウェイ島の攻略を構想していました。そしてその後に、フィジー・サモア方面を攻略することで、海軍中央である軍令部と合意していたのです。

 野中 フィジー・サモア方面を支配下に置き、アメリカとオーストラリアの連携を遮断しようという、かなり現実離れした戦略でした。

 大木 ところがミッドウェイ海戦で日本海軍は大敗を喫します。しかしフィジー・サモア方面を攻略しようという動きは止まらなかった。ミッドウェイで空母が失われたから、フィジー・サモア方面への攻勢を継続するためには、拠点のラバウルとの中間地帯に飛行場が必要だというので、ガダルカナル島へ飛行場を造る設営隊が送り込まれました。

 野中 その設営隊は本来、ミッドウェイ島に行く予定でしたね。それが海戦に敗れたため、浮いていた。

 大木 ええ。ミッドウェイ攻略という第1歩からつまずいていたのに、「状況が変わったから止めよう」と言い出す人はいなかったのです。

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マッカーサーの野望

 野中 このとき日本側の守備戦力が少なかったのは、アメリカの反攻はまだ先だと思い込んでいたからでしょう。実際、ワシントンのアメリカ軍首脳部は、ドイツを叩いた後に日本を叩けという方針で、太平洋方面での反攻は後回しにしていた。

 大木 日本側の想定は必ずしも間違いではなかったのですが、フィリピンを追われた陸軍のダグラス・マッカーサー将軍が、太平洋地域での反攻開始を強硬に主張したため、状況が変わりました。「アイ・シャル・リターン」を派手にやりたかったマッカーサーは、ラバウルを目標にした反攻作戦を主張したのです。

 野中 太平洋地域での反攻には賛成だったアメリカ海軍ですが、ラバウルを狙うほどの戦力は整っていないとして、マッカーサーと対立。結局は海軍の提案に沿って、アメリカはソロモン諸島方面から反攻を始めると決まりました。

 大木 その直後に日本軍がガダルカナル島で飛行場を建設するという情報が入ったので、半月ほどの間に同島への進攻が計画されたのです。日本が飛行場を建設したことがアメリカの反攻を誘発したのではないかという見方もありますが、アメリカの攻勢はそれ以前から計画されており、その目標選定に影響したにすぎません。

 野中 この攻略作戦は短期間で計画されましたが、じつは開戦前からアメリカは、太平洋に点在する島にある日本軍の前進基地を1つずつ奪取する作戦案を立てていました。

 提唱したのは海兵隊幕僚のエリス少佐という人物です。彼は、戦艦からの艦砲射撃と航空機の支援をうけながら敵地海岸に上陸して、前進基地を奪取する「水陸両用作戦」という新しい概念を提示しました。ガダルカナル戦の前から、戦略的にも戦術的にも、アメリカのほうが先行していたのです。そして実戦の中で試行錯誤しながら完成に向けて磨き上げていきました。

 大木 海兵隊は「水陸両用作戦」を、ガダルカナル島で初めて実践します。艦砲射撃と爆撃機の援護をうけて、第1海兵師団が上陸したのは80年前の8月7日早朝でした。

 野中 それから半年間、陸上や周辺海域で、日米は熾烈な戦闘を繰り広げます。すべてに触れるのは難しいので、最初の戦闘「一木(いちき)支隊の玉砕」、日本軍の第1次総攻撃「血染めの丘の戦闘」、そして日本軍の「第2次総攻撃」という3つのヤマに絞って検討していきましょうか。

 大木 では一木支隊の玉砕から論じてみましょう。アメリカ軍の上陸をうけて、日本海軍はすぐにラバウルから航空部隊を出撃させ、巡洋艦主体の艦隊も突入させました。

 そして日本陸軍は、ミッドウェイ島に上陸できず、日本へ帰航しようとグアム島にいた一木支隊2000人を投入します。

 野中 このとき大本営はアメリカ軍の勢力を2000人と過少に見積もっていました。隊長の一木(いちき)清直大佐は陸軍歩兵学校教官を何度か務めた経験があり、伝統の白兵銃剣による夜襲をもってすれば容易に撃破できると信じていた。だから先遣隊900人は、後続を待たずに海岸線を前進しはじめました。

 大木 このとき事前に出した将校斥候、偵察隊が殲滅され、敵情はまったく不明だったのですね。

 野中 突撃した一木支隊は、待ち伏せしていたアメリカ海兵隊の激しい攻撃をうけて全滅。一木大佐も自決したとされています。アメリカの戦史には「傲慢な現実無視、固執、信じがたいほどの戦術的柔軟性の欠如」と厳しい指摘が並んでいます。

 大木 それは否定できませんが、同時にアメリカ海兵隊の現地司令官ヴァンデグリフト少将の戦術眼、作戦眼も評価すべきです。彼の回想録を読むと、子どもの頃から戦史を読むのが好きで、もっとも尊敬していたのはイギリスのウェリントン将軍だというのです。

 野中 ワーテルローの戦いでナポレオンを破った人物ですね。

 木 そのワーテルローの戦いでウェリントンがフランスの最強部隊「老練親衛隊」を撃破した戦術が「反斜面戦術」です。これは崖や丘陵など敵より高い場所に陣取り、稜線より低い位置、つまり斜面の反対側に隠れて敵の砲撃から身を守りつつ、敵が突撃してきたら上から攻撃するという戦術です。

 私がガダルカナル島の地形を調べてみると、日本側が進軍していた基地の東側よりも、イル川の西側で待ち伏せする海兵隊のいた場所の方がちょっと高い。

 野中 ほう。そうでしたか。

 大木 布陣のときにウェリントンの戦術を想起したのかもしれません。さらにヴァンデグリフトは、もうひとつ網を張っていました。イル川には干潮になると歩いて渡れる砂州があるのですが、そこを狙う砲兵や機関銃部隊を、事前に砂州までの距離を測った上で配置したのです。

 野中 実際、日本軍は、その砂州から突撃しています。

 大木 せまい砂州に殺到した一木支隊は当然、バタバタとやられてしまいました。日本側は、もっと飛行場の近くにアメリカ軍がいると想定していたのですが、その手前で巧妙な布陣に引っかかってしまった。

 ウェストポイントの陸軍士官学校やアナポリスの海軍兵学校ではなく、一般の大学から海兵隊に志願した経歴のヴァンデグリフトは、エリートではないが戦史に通じた知性派だったのです。

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上陸するアメリカ海兵隊

日本軍のスキルも優秀だった

 野中 一木支隊が全滅したあと、日本軍は戦力の逐次投入を繰り返します。9月に行われた「血染めの丘の戦い」では、フィリピンから苦労して輸送された川口支隊と一木支隊の残存兵、約6000人が、ジャングルを迂回して飛行場の南方から突撃しようと、地図のないジャングルの中を、敵の偵察を避けながら3日間かけて真夜中に移動しました。

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source : 文藝春秋 2022年9月号

genre : ニュース 社会 昭和史 歴史