「嘘」という単語を6度も
事故が起こった。まさかの事故が。
これが、第一報に触れたときの率直な感想だ。大谷翔平の専属通訳をしていた水原一平氏が450万ドルもの負債をこしらえ、その借金を大谷翔平が肩代わりし、大谷自身の口座からインターネットを使って送金した――大雑把にいうと、これがメディアによる最初の報道だった。2024年3月21日。MLB開幕戦がソウルで行われた翌日のことだ。
なんてことだ、と私は思った。寝耳に水とか、好事魔多しとかいった成句も脳裡をかすめたが、「事故」というぶっきらぼうな言葉のほうがリアリティを伴う。
才能の量も、精進の量も、体力や気力や幸運の量も、すべてに並外れた大谷翔平が、なぜこんな事態に見舞われなければならないのか。《無傷なものなどどこにある?》というアルチュール・ランボーの一行を思い出し、私は頭を振りそうになった。
ただ、報道の論調はすみやかに変わった。大谷選手は水原氏に虚言を弄され、巨額の金を盗まれたようだ、という報道がたちまち世間に流れた。水原氏自身も、ESPNの取材に対して「嘘をついていた」と告白し、大谷翔平は米国西海岸時間3月25日の記者会見で声明を発表した。自身に関わる水原氏の発言をすべて否定し、賭博に手を出したことは一度もないと断言し、「嘘」という単語を6度も使った。
会見直後にはドジャー・スタジアムでキャッチボールをする姿を公開し、オープン戦(対エンジェルス)を経て、3日後の28日、本拠地での開幕戦(対カーディナルス)に、2番DHとして出場した。
テレビで見るかぎり、大谷翔平は温かく迎えられていた。私はドジャー・スタジアムに行かなかったので断言はできないが、観客席からのブーイングはそんなに聞こえてこなかったはずだ。少なくとも、MLB機構やドジャース球団は大谷選手を守ろうとしている――こう感じた人は多いのではないか。
MLB機構の視線が柔らかい
もちろん、疑惑がすべて晴れたわけではない。大谷選手自身も、当分の間は「片付かない気分」で野球を続けざるを得ないだろう。パフォーマンスに多少の影響が出てくるのも仕方がない。いかに超人的な選手といえども、心身に受けたダメージは相当に大きいはずだ。
MLBには、いくつかの黒歴史がある。ブラックソックス事件やピート・ローズの野球賭博事件、そして薬物に関するスキャンダル(ステロイドの使用で本塁打が異常量産された事件やコカイン濫用事件)などは、だれしも耳にしたことがあるはずだ。
バリー・ボンズやサミー・ソーサの関わったステロイドの問題、ドワイト・グッデン、ダリル・ストロベリー、ティム・レインズらが関与したとされるコカインの問題については、繁雑を避けるために省略し、ここでは賭博絡みの事件に話を絞ることにしよう。
最初に指摘したいのは、ブラックソックス事件やピート・ローズ事件に対して下された裁定に比べると、大谷翔平に対するMLB機構の視線が、ずっと柔らかく感じられることだ。所属するドジャース側も、出場停止処分や戒告処分などを、大谷選手に科していない。暫定的な結論からいうと、「大谷選手は無辜の被害者であり、不正行為は一切働いていない、ただ一点、金銭管理の面で油断や不注意があったことは否めない」とするのが、球団並びに機構側の基本的な見解ではないかと思う。
MLBの姿勢を変えたブラックソックス事件
ギャンブルに対してMLBがきびしい眼を向けるようになったのは、1919年に起こった〈ブラックソックス事件〉が契機といって差し支えないだろう。
それ以前のアメリカ野球界には、不正行為やギャンブルを必要悪と見なす空気が濃厚だった。ジョン・マグロー、タイ・カッブ、トリス・スピーカーといった名選手も汚染されていたとされるが、なにしろ当時は、暴れん坊やホラ吹きが幅を利かせた世界だ。
1904年に年間349奪三振を記録した怪人ルーブ・ウォッデル投手などは、酒場での支払いに窮するとボールを取り出し、「これは、あのサイ・ヤングと延長20回を投げ合って勝ったときの記念球だ」といって、借金のカタに置いていた。「記念球」は、アメリカ全土で何百個もばらまかれたらしい。
ブラックソックス事件は、ワールドシリーズの八百長事件だった。ア・リーグの覇者シカゴ・ホワイトソックスに属する選手の一部が賭博組織の誘惑を受け、劣勢を伝えられたシンシナティ・レッズに3勝5敗(当時は9戦勝負)で敗れ去ったのだ。
「アンラッキー・エイト(非運の8人)」と呼ばれた選手のなかには、通算打率3割5分6厘(史上第3位)の名外野手シューレス・ジョー・ジャクソンも混じっていた。
彼が本当に八百長に関与していたかどうかは、いまだに判然としないのだが、球聖タイ・カッブや巨人ロジャース・ホーンズビーと並び称されたシューレス・ジョーの永久追放処分に、世間は大きなショックを受けた。
あの有名な「嘘だといってよ、ジョー」という少年の叫びが喋々されたのも、このときの話だ。査問を受けたジョーに向かって、少年が悲痛な声を絞り出したとされているのだが、これはどうやら、後世の著述家エリオット・アジノフ(この事件を描いた1988年公開の映画『エイトメン・アウト』の原作者)が創造した台詞らしい。ただ、野球好きの間で、それに共鳴する気分が濃厚だったことは否みがたい。
シャンパンは薄められ、平均年俸は16球団最低
この八百長事件には、入り組んだ背景があった。まず指摘されたのは、ホワイトソックスのオーナー、チャールズ・コミスキー(彼も元メジャーリーガーだ。セントルイス・ブラウンズの一塁手で、39年には殿堂入りを果たしている)が異常なほど吝嗇だったことだ。17年にワールドシリーズ制覇を果たしたにもかかわらず、選手の平均年俸は、両リーグ16球団を通じて最低だった。最低生活を送るのに年間2000ドルが必要だった時代に、ジョー・ジャクソンの年俸が6000ドルだったというから、これはひどい。
それだけではない。優勝祝賀会のシャンパンは水で薄められた。ストッキングの洗濯代を惜しんだため、選手たちの履くホワイトソックスはいつも黒ずんでいた。「ブラックソックス」の異名はただちに八百長事件を連想させるが、もとを糺せば、たんに洗濯代を惜しんだ「しみったれ」にさかのぼる。
まだある。エース右腕のエディ・シコット(彼も8人のうちのひとり)などは、「30勝以上したらボーナスを払う」という約束を交わしていたにもかかわらず、29勝をあげた時点で登板機会を完全に奪われてしまった。あまりのあくどさに笑い出したくなるが、現在のメジャーリーガーの高年俸の背景には、安給料が招いた過去の事態に対する後悔が横たわっているのかもしれない。
昔も今も変わらない賭博師の暗躍
賭博師の暗躍は、昔もいまもそう変わっていない。水原氏に多額の金を信用貸ししたのはマシュー・ボウヤーというブックメーカーだが、ブラックソックス事件のときは、ジョー・スポート・サリヴァンというブックメーカーが絵図を引いた。
サリヴァンはまず、ホワイトソックスの不満分子チック・ガンディル一塁手に狙いを定めた。当時、チーム内は「スマートで高給取り」のエディ・コリンズ一派と、「武骨で薄給に甘んじている」ガンディル一派に分かれて、内紛が絶えなかったのだ。
ガンディルは、フェンウェイパークに近いホテルでサリヴァンから8万ドルを受け取った。そのサリヴァンを操っていたのが、「暗黒街の帝王」アーノルド・ロスティーン(日本ではロススタインと呼ばれるが、映画での発音に従う)だった。
ユダヤ系犯罪組織を築き上げたロスティーンは、あのラッキー・ルチアーノやフランク・コステロ(ともにマフィアの大物)に影響を与えたフィクサーである。ブラックソックス事件では証拠不十分で不起訴処分となったが、事件の調査団は彼の関与を確信していたようだ。水原氏の事件でも、ボウヤーの背後に捜査のメスが入る可能性がある。
いずれにせよ、ホワイトソックスの8選手は、全員が永久追放処分を受けた。
三塁手バック・ウィーヴァーなどは、金銭をまったく受け取らず、手抜きプレーも一切行っていなかった(ワールドシリーズでは34打数11安打)のだが、「計画を知りながら、球団に報告を怠った」という理由で責任を問われている。
1920年、球界浄化の機運に押されて初代コミッショナーに就任した判事ケネソー・マウンテン・ランディスが苛斂誅求の人だったこともきびしい判決につながった理由のひとつだろう。8人の選手たちは、20年のシーズンを最後に、永久追放されてしまう(ガンディルは1年早く、19年に契約解除)。
アメリカ野球の傷心は映画にも
シューレス・ジョーやバック・ウィーヴァーなど、実は潔白だったのではないかと思われる選手が処分に含まれていたこともあって、この事件はアメリカの野球好きにとって大きなトラウマとなった。
先に触れた『エイトメン・アウト』や『フィールド・オブ・ドリームス』(1989)といった映画を見ると、選手や観客の心理的外傷がつぶさに描かれていることに気づかされる。アメリカ野球にハートブレイク(傷心)が付随していることの証明だが、やはり胸が痛む。
ホワイトソックスは、21年以降、長い低迷期に入った。ア・リーグのペナントからは1959年まで遠ざかり、つぎにワールドシリーズを制したときは、2005年になっていた。1917年から数えると、実に88年ぶりの戴冠だった。オジー・ギーエン監督が率いるそのチームには井口資仁二塁手がいた。
ホワイトソックスの本拠地、旧コミスキー・パークの取り壊しが決まった1989年、ふたたび全米をゆるがす賭博スキャンダルが起こった。
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