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「被爆したつらさなんてとても口に出せない雰囲気だった」

「被爆者について語ると、韓国人の被爆者について知らない若い世代には、『韓国にいつ原爆が落ちたのですか』と質問してくる人もいたりする。私たちは韓国でも存在しているのに、していないも同然の存在なのです。だから、Tシャツが問題になったことで逆に、みなさんに広く知ってもらえる機会になったと思っています」

 李キヨルさんはそう言う。

 李さん一家は、父親が出稼ぎに出た広島の己斐町で被爆した。己斐町は原爆の爆心地からおよそ2.4キロのところにあり、資料によると己斐駅の駅舎は爆風で殆どが倒壊したとあり、李さんの家も爆風で崩れた。

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©iStock.com

「私は当時幼かったのでその雰囲気は思い出せませんが、両親や姉から聞いた話では、日本から解放された直後(終戦直後)の韓国人社会は解放の喜びにあふれていて、被爆したつらさなんてとても口にも出せない雰囲気だったそうです」

 終戦を迎え、その年の10月末に李さん一家は故郷のハプチョンに戻った。

「村には日本から帰ってきた人が多くて、今でも記憶に残っているのは、村でしばらく日本語が飛びかっていたことです。数年、いや、もっと使っていたかもしれません。解放されたのに、口に馴染んでいたのでしょうねえ」

釜山から車で2時間の山間にある“第2の広島”

 ハプチョン郡は、釜山から車でおよそ2時間ほどいった山間の村で、大半の働き手は徴用されたり、貧しかったため日本に出稼ぎに出ていたそうだ。今でも多くの被爆者がここに住み、昨年には原爆資料館が建てられ、韓国では第2の広島とも呼ばれている。

ソウルの中心部から電車で50分ほどのところにある韓国原爆資料館。左手に見える千羽鶴は日本から贈られた(筆者提供)

「幼い頃、村の外れの家に年中、部屋に籠もっている女性がいました。顔を見たのは一度きり。ドアのすき間からちらっと見えただけだったのですが、目がぎょろっとしていて、火傷痕だったのか、顔はただれていた。怖くなって一目散に家に帰りました。その女性が被爆者だったと知ったのはずいぶん後のことです。当時は村の中でもそんなことを言える雰囲気ではなかったんですね。

 でも、今でも、同じような状況です。互いが被爆したことを知っている親戚どうしでも、話題にしようとすると止める者がいる。自分の仕事に差し障りがでるから、口は慎んでくれというんです」

被爆2世だということは子どもにも伝えていない

 そういう李さんも、被爆2世だということを子供たちには今でも伝えておらず、原爆被害者協会に登録したのも、子供たち全員が巣立ってからだったそうだ。

 広島や長崎では数万人に上る朝鮮半島出身者が被爆したとされるが、韓国では、現在2300人ほどが被爆者として登録している。

 李さんはこんなことも言っていた。

「私たちはだから北朝鮮の核保有にも当然、反対です。金正恩労働党委員長にはこう言いたい。『北朝鮮も核を保有しない代わりに米国にも同じことを提案してみたらどうか』と」

 今回のBTSの騒動をめぐり、韓国原爆被害者協会は「全世界に原爆の被害を伝えることができてよかった」というコメントを出した。