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「認知症になっても人生が終わるわけではない」 

 認知症の老老介護は、現代の高齢化社会の中にあって、どの家族にも訪れる可能性がある問題だ。この映画ではそれに加えて、離れて暮らす娘(信友監督)が、「介護離職をして田舎に帰るべきかどうか」という葛藤も描かれる。そうした現実は、親世代である高齢者の、その子どもである息子・娘世代の胸をも打つ。画面を見つめながら、自分だったらどうするだろう、自分の親だったらどうするだろう、と自問自答せずにはいられない。

 だが認知症という、現代の医療では治らないとされる病を得ながらも、両親はどこか明るさを失わない。冒頭に記した大ゲンカのあとも、気持ちを落ち着かせた母は「長生きしたね。ええ女房でね」と満面の笑みを浮かべる。娘の東京での仕事を尊重し、「帰ってこんでええ。介護はわしがやる」と決然と宣言する父は、驚くべきことに、95歳で初めて家事をやり始める。掃除、買い物、料理……。リンゴの皮はところどころ残ったままだけれど、その愛情の深さに胸を打たれる。洗濯物の女性用下着を畳みながら「これは乳(ちち)するもの!」という場面では、観客席が笑いに包まれる。

近所の川沿いを歩く両親の姿 ©「ぼけますから、よろしくお願いします。」製作・配給委員会

 どこにでもいそうではあるが、こんなキャラクターの夫婦は、実際にはなかなかいない。認知症という絶望的な病気に焦点を当てながらも、この映画の中にある、ある種の「救い」と、監督の「認知症になっても人生が終わるわけではない」というメッセージが、観る者の心に刺さるのだ。

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監督・信友直子の強い個性

 だが、この映画が評判を呼んだ理由は、「他人事ではない普遍的な家族の物語」だから、ということだけではないと思う。

 私が同業者として注目したのは、何といっても信友直子監督の手腕だ。

 信友監督は、「持っている」ディレクターだ。稀にだが、そう感じさせる作り手がいる。「彼女が取材すると、その被写体に何かが起きる」と言ったら言い過ぎだが、凡百のディレクターには撮れないものが撮れてしまう。だがこれは、決して偶然ではないのだ。取材者の「意図」や「狙い」は、否応なくカメラに映りこむ。信友監督の場合、そこに強い個性がある。彼女が作る番組を観るたびに「これは信友さんにしか撮れないよな」と感じたものだ。 

手をつないで撮影する ©「ぼけますから、よろしくお願いします。」製作・配給委員会