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「観光もそうですけど、私たち地元の人が何より期待している」

「もちろん、観光の問い合わせもたくさんあるんです。でも、観光もそうですけど私たち地元の人が何より期待しているんじゃないかな。鉄道がなくてずっと学生さんたちは不便をしていたし、それに震災までは毎日当たり前に走っていたんですから。それがなくなってもう8年ですからね……。復旧してリアス線が開業すれば、また一歩進むのかなと。そういう気持ちで楽しみにしています」

 観光案内所の女性はこう話してくれた。

 ローカル線の取材をしていると、沿線の人たちからは「なくなったら寂しいけど乗らないからしょうがないよね」などというどこか突き放した言葉を聞くことが多い。けれど、三陸は少し事情が違うようだ。通学途中の高校生は、「僕は卒業しちゃうのでリアス線で通学する機会はないんですけど、でもこれで少しでも町が活気づいたらいいですよね」と笑顔を浮かべる。思えば、2014年4月の南北リアス線全線再開時には、沿線の人たちが夏ばっぱよろしく大漁旗を掲げて運転再開を喜んでいた。

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南北リアス線が再開した2014年。大漁旗で歓迎する沿線の人々
同じく2014年の再開のさい、駅に詰めかけた人々

1896年の明治三陸津波以来、鉄道は地域の悲願だった

 こうした三陸の人たちの鉄道への思い。それは、三陸海岸を縦貫する鉄道が長年の地域の悲願だったという歴史に由来するようだ。1896年の明治三陸津波で大きな被害を受けた三陸地方は、鉄道も道路も通じていない“陸の孤島”で援助物資もまともに届かず被災状況の把握すらままならなかったという。それで、何よりも鉄道をという思いで長年陳情を続けてきた。そうして1939年に山田線が全通して盛岡まで結ばれるようになった。さらに戦後になってだいぶ時間はかかったが、廃止や工事の中止という危機も乗り越えて第三セクターとして三陸鉄道の開通も叶ったのである。そうした歴史があるから、三陸の人たちは鉄道にひとしおの思いを抱く。三陸鉄道の冨手さんも、「地域あっての、地域のための鉄道ですからね」。

 三陸鉄道は2011年3月11日のわずか5日後から北リアス線久慈~陸中野田で運転を再開している。それも運賃を取らない運行で、いちはやく復興のシンボルとなった。

「地域のための鉄道ですから、動かせるなら少しでも動かすぞ、と。普通なら絶対やらないですよね。でも我々はやった。すぐに再開しなければどんどん後回しになって、もしかしたら廃止という話になってもおかしくなかったですからね」(冨手さん)