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連載『めちゃイケ』、その青春の光と影

「ずーっと説明をすること」が商売の核

 ところがかたや、荻野さんというディレクターは「なんで?」と聞かれたら「わかんない、わかんない」と言っちゃう(笑)。それでみんなが笑っちゃいながらついていく。そういう天性の魅力で引っ張るタイプもいるんですけど、僕はやっぱり三宅さんの演出哲学のようなものに影響を受けました。どんなに面白いことが頭に浮かんでも、それをきちんと説明できる人じゃないと面白いものは作れない。面白いことを発想するのは、自分だけでなく、作家やタレントでもいい。でも説明はこっちの仕事。面白いことを思いつく以上に、面白いことを説明する作業がプロの演出家としては大事なんだと思います。

 1つの面白いことを「今度これを撮りたい」って制作スタッフや作家に説明して、美術スタッフに説明して、カメラマンにも説明して、ようやくタレントの楽屋に行って「こういうのはどう?」って説明して。撮り終わったら編集所に行って、「ここの編集なんだけどね」と編集マンに説明して。ナレーターに「3行目のニュアンスなんですけど」と説明して。やっとたどりついたオンエアだってたくさんの人たちへの説明ですよね。ずーっと説明をすること、コミュニケーションが商売の核の部分になっていると思います。

片岡の説明には常に身振りや手振りがともなう
言葉だけでは伝わらない非言語のコミュニケーションとなる

 演出家としての師匠でいえば、もうひとり、星野淳一郎という人がいました。直接的には小松純也の師匠ですけど、厳しくも愛のある人で“隣の班の若手”だった僕のことも気にかけてくれていました。一昨年、亡くなっちゃったんですけど……。

<星野淳一郎は、高校時代からアルバイトとしてフジテレビの現場に参加し、『THE MANZAI』『笑っていいとも!』などで横澤彪(※5)や佐藤義和(※6)といったプロデューサー陣の“懐刀”として活躍したフリーディレクター。『夢で逢えたら』では吉田正樹(※7)とともに演出を担当。のちに「旧横澤班」と呼ばれる大所帯のお笑い担当チームに当時ADとして片岡飛鳥や小松純也らがいた。その後、吉田と片岡は『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』を、星野と小松が『ダウンタウンのごっつええ感じ』を演出していく。>

 吉田さんは『ひょうきん族』と『笑っていいとも!』でADを2年やっただけの僕をいきなり『やるならやらねば』というゴールデンタイムでディレクターに引き上げてくれたプロデューサーで、もう恩人みたいな人です。吉田さんがいなければきっと全然違う演出人生だったかなと。で、そんな吉田さんがプロデューサーの目で最初に認めた同世代の才能が星野さんだったはずです。うん、孤高のディレクターですよ。僕のことは三宅さんも吉田さんも「飛鳥」と名前で呼んでくれるのに星野さんからはずっと「小僧」としか呼ばれなかった(笑)。

 で、経験も実力もないのにディレクターになってしまった僕がヒイヒイ言って悩んでいるのをどこかで見ていたんでしょうね。優しい方だったので、編集所に手紙が置いてあったりするんですよ。「小僧へ、編集の鉄則とは……」みたいに。