「同一手順を3回繰り返す」から「同一の局面が4回登場」へ
千日手の概念は江戸時代から存在していたが、終盤で駒を打ち合い、取り合う状況でしか発生しないものと考えられていた。そのためルールとしては「千日手となったときには攻め方が手を変える。どちらが攻め方か不明のときは、仕掛けた側から手を変える」という曖昧な規定にとどまっていた。
明治から大正にかけて、将棋界の覇権を争ったのが関根金次郎と阪田三吉の両者だが、両者の対局で千日手が出現し、阪田が「攻め方打開」のルールを知らず、無理に打開してペースが狂い惜敗するということがあった。阪田が打倒関根を志した一局とも言われている。
しかし「仕掛けた側」という定義はあいまい極まりない。また昭和になって、駒のぶつからない序盤(要するにどちらも仕掛けたとは言えない局面)でも千日手の将棋が出現した。このことが現在の規定に近い「同一手順を3回繰り返すと千日手」というルールが採用された一因となっている。
「同一手順を3回繰り返すと千日手」の規定は長らく続いたが、現在では上記の通り「同一局面が4回出現すると千日手」という規定になっている。
ある局面から同一手順を3回繰り返すと同一の局面が4回登場することになるのだから、同じことを言っているのではないかと考えられる方もいるかもしれない。ところがそうではないのだ。
別の意味で歴史を変えた一局があった
2図は1983年の名人挑戦者決定リーグ戦(現在のA級順位戦)、▲米長邦雄王将―△谷川浩司八段の一局である。手数がかなり長くなってしまい恐縮だが、追っていただければ幸いである。
2図は118手目の局面だが、以下の手順を追うと142手目の△7八同銀不成で、118手目と同一の局面が4回出現したことになるので、現行規定では千日手が成立する。
しかし当時の規定である「同一手順を3回繰り返し」てはいないのだ。読点を打った直前で同一局面が出現しているのだが、それに至るまでの順が微妙に異なることはご理解いただけるだろうか。
この対局は最後の▲8七銀の直後に谷川が手を変えたのだが、それが錯覚で米長の勝ちとなっている。結果はともかく、それまでの「同一手順を3回繰り返す」では、永遠に指し続けることができて決着がつかない将棋が出現するというのが立証された。
この一局がきっかけで、現在の「同一局面が4回出現で千日手」という規定に変わった。当時の谷川は名人挑戦者決定リーグに初参加だった。その1期目で挑戦権を獲得し、21歳の史上最年少名人誕生へとつながるのだが、その過程ではまた別の意味で歴史を変えた一局があったことになる。