文春オンライン

従軍慰安婦をテーマにした話題作『主戦場』で“あんなインタビュー”が撮れた理由

プロパガンダ映画か、野心的なドキュメンタリー作品か

2019/06/11
note

一点だけ、「そうはしない方が良かったのに」と感じたこと

 現実には、彼らが一堂に会することはない。なぜなら、彼らはお互いを嫌い合っているので、同じテーブルに着くことはないからだ。同じテーブルに着くことがない人たちを、映画という一つのテーブルに乗せたことが、この映画の成功の最大の要因だ。

 そして、前半は慰安婦論争が中心の構成だが、中盤からは、教科書問題やNHKの番組改変問題、戦後の日米関係、さらに日本会議と安倍内閣の関係にまで論点が広がり、慰安婦問題と根っこを同じくすると思われる、いまの日本社会に横たわる重要なテーマを投げかけるのだ。そしてラストには、監督自身のナレーションによって「アメリカ人として日本人に警告したい」とメッセージが語られる。その内容についてここでは書かないが、長い時間(調査から公開まで3年)をかけていきついたこの問題への、そして日本社会への、監督の思いが込められている。

©NO MAN PRODUCTIONS LLC

 私は、公開後に取材相手から否定的なリアクションも予想された(そして実際にあった)中で、この映画を完成させ公開までこぎつけたデザキ監督の手腕と勇気に敬意を表したい。だが一点だけ、「そうはしない方が良かったのに」と感じたことがあった。それは、保守派の論客たちを「歴史修正主義者」と呼んだことだ。

ADVERTISEMENT

デザキ監督の原動力はなんだったのか

「歴史修正主義」という言葉は、本来は新史料の発見などによって、歴史の新しい解釈を試みる姿勢を表すものだが、現在は「ナチ・ガス室はなかった」などの、でっち上げの主張をして歴史を改変しようとすることを指す場合が多く、言葉自体に否定的な意味がつきまとう。

 監督が取材の過程を経てその言葉に行きついた、ということなら理解できるのだが、映画のかなり早い段階で彼らを「歴史修正主義者」と呼んだことで、監督の立ち位置が完全な中道ではなく左側にいることが見えてしまうのが、対立する主張を縦横無尽に語らせるというこの斬新な映画にとっては、もったいないと思ってしまった。

©NO MAN PRODUCTIONS LLC

 一人称で社会や政治の問題を描くという意味では、突撃取材で知られるマイケル・ムーア監督の作品も同様だ。だが彼の映画は、監督の政治的な主張をはっきり打ち出したもので、内容的には結論ありきのものが多い。一方『主戦場』は、「対立する意見を公平に切り取って、観た人に委ねる」という、ムーア監督とは異なる手法で政治問題を扱っているだけに、この「歴史修正主義者」という言葉の使い方だけが、残念に思った。そう言いたくなるほど、保守派の主張が、あまりにも杜撰な論理によって構築されていることは理解できるのだが……。

 それにしても、デザキ監督を、このような野心的な試みに走らせた原動力は、なんだったのか。私は監督の内なる強い正義感だと思う。日系アメリカ人二世として、子どもの頃からアメリカで、アジア人蔑視にさらされてきたというデザキ監督。マイノリティーの人々が沈黙を強いられ、苦しんでいる様を見過ごせない、という正義感が、このすさまじい映画を作らせたのだ。

INFORMATION

『主戦場』
原題:SHUSENJO: The Main Battleground of The Comfort Women Issue

2018年/アメリカ合衆国/DCP/122分/配給:東風

4月20日(土)よりシアター・イメージフォーラムにて緊急公開ほか全国順次公開中。
 
WEBサイト: http://shusenjo.jp

従軍慰安婦をテーマにした話題作『主戦場』で“あんなインタビュー”が撮れた理由

X(旧Twitter)をフォローして最新記事をいち早く読もう

文春オンラインをフォロー