1ページ目から読む
5/6ページ目

争議団が天皇に直訴するも 

「千葉県の歴史」によれば1928年3月20日、争議団の副団長堀越梅男が、葉山に行幸する途中の天皇に直訴する事件が発生した。最も詳しいのは「野田醤油二十年史」だ。

「突如恐懼に絶えざる不敬事件が突発した。すなわち、野田争議団副団長堀越梅男(元第十工場工員)は三月二十日午後一時五十分ごろ、東京駅前丸ビル明治屋支店前において、恐れ多くも 両陛下葉山行幸啓の鹵簿を犯し奉って直訴を企てたのである」。「千葉県労働運動史」は「野田争議団の窮状を述べて、一日も早く解決するように天皇の助力を求めたい旨が直訴文にはしたためてあった。天皇の権威を利用しなければ、会社を交渉の舞台に乗せ、政府として調停の労を取らせ得ないと彼は考えたのである」と説明している。しかし、これで流れは決定的となった。

「上御一人を煩わし奉らんとするが如きは将来に非常なる悪例を貽(い)する(残す)ものといわねばならぬ」(「野田醤油二十年史」)と会社側は攻撃。「千葉県労働史」は「総同盟本部は鈴木(文吾)会長、松岡(駒吉)主事の連名をもって『畏れ多く恐懼の極み』の声明文を発表し」たと書く。2人は謹慎した。それ以前に争議団は、会社側との交渉を松岡に一任。松岡から申し入れを受けた会社側は協調会常務理事の元内務官僚・添田敬一郎を立会人にして協議を続けていたが、難航していた。

ADVERTISEMENT

 直訴で交渉は急転。4月19日、最終調印にこぎ着けた。主な条件は(1)争議団は4月20日で解散(2)解雇者のうち300名を再雇用(3)解雇手当、生計援助費支給――など。ストライキに参加した約700人は全員解雇され、ほぼ会社側の全面勝利に終わった。

野田醤油本社にて行われた覚書調印(「野田血戦記」より)

「金はいらないから死ぬまで闘う」

 4月20日付朝日朝刊は「さしもの野田争議 急転して解決を告ぐ」の主見出しで「疲労も恨も忘れて取交す温い握手」とあるが、その味は労資でかなり違ったはずだ。第二次世界大戦前の日本最長のストライキは218日で終わった(朝日の記事は「217日」とあるなど、日数には諸説あるが「千葉県の歴史」に従う)。4月21日付東京日日朝刊千葉版は「全町にみなぎった 喜びのざわめき」「会社、争議団本部、警察の晴れやかな空気」の見出し。争議解決を喜ぶ地元の表情を伝え、「一切はとけて もとの野田へ」と書いた。それは本当か? 同日付朝日朝刊(本版)は「悲憤の涙の中に大争議の解団式」の見出しで争議団解団式の模様を載せている。組合幹部が万歳拍手のうちにあいさつしたが、「団員の一人が『金はいらないから死ぬまで闘う』というや今まで沈黙を守っていた人々は一せいに騒ぎだし極度に殺気立った」。写真説明には「声をのんだ解団式」とある。まさに不本意な結末に対する悲憤慷慨のラストシーン。こちらの方が事実に近そうだ。

争議団解団式の模様を伝える東京朝日新聞