“タコ部屋”に押し込まれる劣悪な環境 ほぼ全員参加が労働組合に参加
そもそも醤油醸造は、杜氏や「蔵人」(醸造工)の技術や経験に頼る傾向が強い古い体質。杜氏を頂点とする徒弟制に加えて、蔵人の採用なども「親方」と呼ばれる外部の業者が全て差配しており、未婚の蔵人は低賃金のため、蔵に付設された大広間で共同生活。“タコ部屋”のような職場もあったという。資本側はパイプラインやエレベーターなどの機械化を進め、蔵人の雇用や作業に対する権限を強める。
一方1921年、野田醤油に労働組合が組織され、蔵人約1500人のほぼ全員が加盟した。日本の労働組合は分裂を繰り返していたが、野田醤油の労働組合に対しては、「日本労働総同盟」が指導。1923年には、関連会社の労働者らも加えて「日本労働総同盟野田支部連合」となった(のち「関東醸造組合野田支部」と改称)。これ以降の争議の叙述は会社側と組合寄りでかなり違う。比較的中立と思われる「千葉県の歴史」を中心に流れを追う。
蔵人の多くは賃金が低いため、仕事を早く終わらせて副業
1922年には、醤油の樽の加工に従事する蔵人170人が棟梁の賃金ピンハネ撤廃を要求してストライキを起こした。この際には、棟梁側に買収されたとされる元組合幹部が組合員2人に刺殺される事件が起きている。翌1923年、会社側が(1)8時間労働制(2)年給制から日給制へ――などの作業制度改定を提示したのに対して、組合員全員がストライキに突入した。蔵人の多くは賃金が低いため、仕事を早く終わらせて副業で稼いでおり、定時制には強硬に反対していた。この時は、内務省や千葉県知事が調停に入り、組合側に有利な形で「手打ち式」が行われた。会社側の改革は失敗。「こうした組合優勢の中で野田醤油の労資関係は推移していった」(「千葉県の歴史通史編近現代2」)。「野田醤油株式会社二十年史」も、会社側の立場から「労働組合員は争議後凱歌を挙げて工場に入り、その態度全く傍若無人で、工場社員の威令ほとんど行われざるに至った」と書いている。