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「従業員が労働組合員となった結果、不従順、不勉強のため」

 会社側は反撃のチャンスを狙っていた。

 元野田警察署長の内務官僚を工場長に招き、東京商大(現一橋大)の労働問題研究者を採用して労務管理を検討させた。新鋭工場を建設したが、それも争議を見越しての手段だったと考えられる。1919年に渋沢栄一らが設立した労資協調の半官半民の研究・調査機関「協調会」に相談。協調会からは、この「昭和の35大事件」の「永田鉄山斬殺さる」の本編の筆者・矢次一夫が現地に派遣されたという。

現地に派遣されたという矢吹一夫氏 ©文藝春秋

 チャンスは醤油の運送業者の切り替えだった。それまで輸送を全面的に引き受けていたのは「丸三運送店」で、従業員は全員組合員だった。「店主は会社と通じ、(1927年)七月に突如、仕事を下請け会社に任せて旅行に出てしまったのである。さらに九月には、下請け会社が新たに『丸本運送店』を設立して輸送を開始した」(「千葉県の歴史」)。

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 これに対して組合は「会社と丸三、丸本3社の提携は組合の破壊工作」と強く反発。従来通り、丸三に運送を担当させることと丸三従業員の生活保障を要求したが、会社側は拒否。「(丸三は)従業員が労働組合員となった結果、不従順、不勉強のため」と主張し、「労働組合側の主張は全く憶測に出発して、強いて言いがかりを設け、罷業決行の名分を求めんとするもの」(「野田醤油二十年史」)と強硬な姿勢を見せた。

会社が集めた無頼漢による争議団本部襲撃事件も発生

 組合側は緊急総会を開き、9月16日からのストライキ決行を決議。指導に当たっていた当時日本労働総同盟関東労働同盟会長(総同盟主事)の松岡駒吉(戦後、衆院議長)は自重を求めたといわれるが、組合側の勢いは止まらなかった。当日、1358人が各工場の入り口を封鎖した。同日付朝日朝刊は「醤油の野田町にまた大罷業突発す」の見出し。「運送店問題の決裂から 四年ぶりの大争議」「電光石火の罷業に町民驚く」として、労資両方の言い分を載せている。

松岡駒吉氏 日本労働総同盟関東労働同盟会長を務めていた ©文藝春秋

 会社側は新設工場に非組合員を集めて操業を続行。全工場の生産額の3分の1を確保して対抗した。さらに9月30日以降、組合員計936人を解雇。再雇用者で工場を再開し、争議団の切り崩しを図った。野田町議らによって結成された「野田正議団」が会社側を支援。さらに、「会社が集めた無頼漢による争議団本部襲撃事件やその真相発表会への乱入事件などが相次いだ。右翼団体による争議介入も続発した」「会社は裏で金を出したといわれた」(「千葉県の歴史」)。

 対抗するように、争議団のメンバーが会社人事係らに硫酸をかけてけがを負わせる事件が続発。争議は暴力的で陰惨な様相を呈した。内務省警保局の1928年4月の帝国議会への報告では、行政検束308人。犯罪事件として検挙したのは69件178人に上った(「野田市史資料編」)。