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「世界空前のデパートメント・ストアの大火災」だった

 白木屋は江戸時代、越後屋(現三越)、大丸と並ぶ「江戸三大呉服店」の1つ。大正時代以降は日本を代表する百貨店だった。火事の翌年1933年7月に発行された「大東京写真案内」には焼ける前の白木屋の写真が載っている。「日本橋を渡って通り一丁目の左角が300年の歴史を持つ白木屋デパート。ふとんに名高い西川や伴伝と並んで超モダン7階建ての高層建築を誇っている。店内53人乗りのエレベーターは東洋随一」と説明にある。

火災前の白木屋デパート(「大東京写真案内」より)

 1969年3月10日に東京12チャンネルで放送された「証言 私の昭和史」で、当時の柄島俊輝・白木屋計画係長は「7階建て、しかも実坪が約1000坪(約3000平方メートル)、その上に1万坪(約3万平方メートル)近い建物、これは地下3階、地上7階ですから、当時の建物としては丸ビルに比べられるような大きな建物です」と語っている。前年の昭和6年9月に竣工したばかりだった。「中央区史 下」によれば、火事は「19世紀の末、ハンガリーのブダペストのデパートで起こった火災以来、世界空前のデパートメント・ストアの大火災」だったという。

「10人前後の人が熱した空気の中で苦しい息をついていた」

「火勢は西側から南側へと延び、たちまち5階家具・美術品売り場、さらに6階特売場、7階食堂・ホール、8階店員食堂へと次第に延焼し、新築間もない豪華近代建築は一大火柱と化して濛々たる黒煙を各階窓々から吐き出し、言うべからざる凄惨さを大東京の真っただ中に呈した」。「中央区史 下」はこう述べ、救助の状況について書く。

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「4階以上のベランダにいずれも10人前後の人が熱した空気の中で苦しい息をついていた。救いを求める声と、通りを隔てた向こう側の群衆がせき立てる中で、どうしたはずみだろうか、救助袋を引き上げるロープが切れてしまった。剛胆な消防手は十余貫の救助袋を担ぎ上げ、ロープを併用して、躊躇し狼狽しわめく4階、5階の人々の救助に当たった」

 6階以上の救出は、当時日本唯一といわれた「フック・ラダー」と呼ばれるつりバシゴを6階ベランダの手すりに掛けたが、長さが約3メートルで5階ベランダまで届かない。「消防手がロープを体に結びつけてはハシゴ伝いに5階に下ろして、そこから救助袋に飛び込まして地上にすべりおろしたのである。ハシゴも救助袋も25メートル45。どちらも7階へは届かなかった。そこでつりバシゴをまたも7階に掛けて、一人一人ロープで縛って下ろした。7階の人々をやっと救出した時には、6・7階の煙はもう火に変わっていた」(「中央区史 下」)。