血のコストを忘れた国民は好戦的になる
国際政治の構造とは別に、国家の意思決定に着目した次元が前述の「シビリアンの戦争」の問題群である。それは、血を流す兵士と異なりコストを意識しにくい政権と国民が民主的に選び取る戦争である。第二次世界大戦後、米英仏、イスラエル等の豊かな民主国家が行ってきた主要な戦争の殆どがこの類型である。先進国の政権が民意に支持されて、力の劣る国に対し軍事介入を決断する場合、核抑止や国際法だけでは防げないことを歴史は示している。核抑止は核保有国間の戦争を封じることにしか繋がっておらず、主権国家が欲すれば、国際法は自国に有利なように運用解釈することで事実上回避できるからだ。こうした小中規模の戦争が、現在取り組まなければいけない平和への課題である。
それに対する処方箋は、「血のコスト」を平等に負担することで国民のコスト認識を変えさせることである。もちろん、敵意を抱えながらも国民が戦争を思い止まるだけが平和の最終形態ではない。図の外側には時代の底流としてのグローバリゼーションの力学が存在する。貿易や投資などの経済活動を通じた相互利益の増進や、人々の移動や交流に基づく相互理解を通じて、全般的な敵意の低下がもたらされる。グローバリゼーションに「望まれた」という枕詞をつけたのは、望まれてこそグローバリゼーションは利益に基づく他者の受容を導き出すことができるからで、望まれない形で進行する限り、却ってテロをはじめ平和への敵になることもあるからだ。
しかし、第二次世界大戦後、先進諸国は韓国とイスラエルを除いて次第に徴兵制を形骸化させまた廃止してきた。スウェーデンは、近年徴兵を廃止して志願兵制でも移民二世に頼るようになった。それと時を同じくしてPKO派兵に積極的になっている。軍人を輩出する層が厚い米国でも、米国籍未取得の移民兵が増えてきているというのが現実だ。その行き着く先は、兵士と市民の分断であり、共感の欠如である。