女性たちとの間に「温かなもの」などあったはずがない
本題に入りたい。
113ページに及ぶ報告書を読んでいると、広河氏の言い分に、たびたび目が点になった。
とりわけ私が引っかかったのは、次の認識だ。
「男女がたとえ、地位や力の世界であっても、すべてがセクハラが絡む関係とならないはずだ。セクハラという言葉で関係が語られたその瞬間に、それまでの男女の心の中に育ったはずの温かなものは、一切なかったように女たちは語り始める。あの時期はそれほどひどいものだったのか、あの時語り合ったことは、そんなに色あせたものだったのか、男たちは愕然とする。そして残ったのは加害と被害だけなんてひどすぎる、と考える」(検証報告書41ページ、107ページ。太字は筆者)
広河氏がここで言う「温かなもの」とは、いったい何なのか。
本人に確かめようと、電話をしメールを送ったが、応答しなかった。検証委に尋ねると、広河氏は聴き取りの際、具体的なことは言わなかったという。
おそらく広河氏は、女性たちとの間には「温かなもの」があったのだから、セックスはその延長線上の、恋人同士の行為だったとでも言いたいのだろう。
だが、広河氏と被害女性との間に「温かなもの」などあったはずがない。
そして、この救い難いほど身勝手な広河氏の認識が、彼の性暴力の根源にあったと私は思う。
「口説き」ではなく、実質的に「わな」だった
私が話を聞いた被害女性たちの中で、温かい雰囲気の中で広河氏とセックスをしたと振り返った人は1人もいなかった。
ある人は、広河氏に強く叱責された直後にホテルに連れて行かれ、「許してほしいなら、こうしてわかりあうのが一番だ」と言われた。
別の人は「僕のアシスタントになるなら一心同体にならないといけない」と条件提示をされた。
また別の人は「取材先の男性たちとセックスするか、それとも僕と一つになるか」と恐怖の二者択一を迫られた。
もし広河氏が言うように、女性たちの間に「温かなもの」が育っていたなら、こうした卑劣な方法でセックスを要求する必要などなかったはずだ。潔く誘えばよかった。
しかし、現実には「温かなもの」など存在せず、正面切って誘うとセックスできないと思ったから、広河氏は女性を追い込むことで、欲望を満たしたのではないか。
女性たちにとって広河氏は、指導者であり、雇い主であり、編集長という権力者だった。ノーと言えば、疎まれる、仕事がしにくくなる、将来への展望が閉ざされるなどの不利益をもたらすことが、容易に想像できる相手だった。
実際、検証報告書には、広河氏が「女性を性的に誘い、それを断られたら、退職に追い込むような態度をとっていた」という証言が出ている。
広河氏は強者対弱者の力関係の中で、自分とのセックスを受け入れるよう女性たちに詰め寄った。それは「口説き」ではなく、実質的に「わな」だった。
これを卑劣と言わず、なんと呼ぶべきか。