映画が「摂取」できる時代
キャラクターが世界(ユニバース)を永遠にループする。そのような原則で縛られた世界では、それを構成するひとつひとつの作品(映画)は、従来のようなオーソドックスな物語の構造が解体されてしまう。そこでは映画は、ユニバースを構成するピースと化し、物語の始まりも終わりも他のピースと接続するためのものになる。マンガ週刊誌の連載作品や、『ウォーキング・デッド』などのTVシリーズの各話と同じポジションを1本の映画が担うことになる。物語は全体の一部であり、常にクリフハンガーが用意され、次の物語への興味を持続させる役割をこなすことになるのだ。
つまり、1本の映画には、もはや明確な始まりも終わりもなくなってしまう。
これには映像をめぐる環境の激変も大いに関係しているだろう。ネットに接続した携帯端末やタブレットで、いつでもどこでも簡単に映像作品を見ることができる。フルコースのディナーではなく、サプリメントやドラッグの錠剤を飲むように“映画”を摂取できる時代なのだ。そこでは物語は断片化せざるを得ないし、刺激的にならざるを得ない。映像が溢れるネット環境で、人は映像の中毒になり、依存症になる。
これが21世紀で求められているエンタテインメント映画の最新形態なのだ。
「老い」という限界、居場所を奪われたヒーロー
『ローガン』は、ユニバースを構成する断片でありながら、1本の作品として独立するという離れ業をやってのけたのだ。これを特別と呼ばずしてなんと呼ぼう。それゆえに、この作品はずっと残る映画になった。終わらない、終われない物語を終わらせる、このアクロバットのおかげで、逆にマーベル史上、永遠に残る映画になった。
クリエイターたちは、ローガン=ウルヴァリンというキャラクターにアクロバチックな仕掛けを施した。不老不死のウルヴァリンに、老いという限界を設定したのだ。
映画の冒頭で、ローガンは不老不死の能力が衰え、己の生きる意味(世界を救うために戦う)も見失っているさまが描かれる。能力が衰えたローガンは、リムジンの運転手としてメキシコの国境で、日々を送っている。老いてテレパスの能力をコントロールできなくなったプロフェッサーXも、一緒だ。この世界では、ミュータントの大半が死滅し、彼らは世界や時代に取り残されてしまっているのだ。ローガンにも、かつてのような居場所がない。スーパーヒーローが存在するユニバースが奪われてしまっているのだ。
私は、かつて2008年に『METAL GEAR SOLID 4 GUNS OF THE PATORIOTS』(以下『MGS4』)で、老いたソリッド・スネークを登場させている。スネークは冒頭で「戦争は変わった」と呟く。スネークのコードネームもオールド・スネークに改められている。SOLIDから「S」と「I」、つまり「IS」=存在することを奪われたOLDスネークというわけだ。スネークもローガンも世界から居場所を奪われている。
存在を奪われた者の行き着くところ、それは彼の物語の終わりであり、彼が去る物語である。私は、『MGS4』で、その「終わり」を描き、なおかつMGSサーガが終わらないというアクロバットを試みた。