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 そして、のちに七三一部隊を生む石井機関(軍医学校防疫研究室を中心とした細菌戦ネットワーク)にとっての浜松事件の教訓として

(1)    情報管理の重要性
(2)    ゲルトネル菌(現在鶏卵などの汚染で問題になっているサルモネラ腸炎菌)の感染性及び病原性の強さの認識
(3)    各種食物上での食中毒菌の増殖には相性があること

――などだろうとしている。

 ここでは原因は大福餅としただけで、それ以上は追及されていない。しかし、辺野喜正夫・善養寺浩「新細菌性食中毒」は「さらに大福餅の材料について調べたところ、粉箱内や作業台の浮粉(とりもち粉=打ち粉)と、浮粉の付着または混入しているもののみからゲルトネル菌が検出されたので、浮粉が重要な因子であることが判明した」と明記している。

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「細菌戦の兵器として使えるのか」を模索していた?

「戦場の疫学」は1942年ごろ、中国・広州での出来事について、当時、石井機関の1つ、南支那派遣軍防疫給水部員だった兵士の証言を紹介している。それによると、太平洋戦争勃発直後に、広州を制圧した日本軍部隊は、香港から逃げ込んだ中国人避難民を収容所に入れたが、あまりの人数の多さに苦慮。食物に細菌を混入させて殺害しようとした。しかし、チフス菌などを入れても効果がなく、部隊長は軍医学校に相談。1942年春、ゲルトネル菌を使って大量殺害に成功したという。

「加熱しても使える菌として広州でデータをとっていたようだ」と常石氏は話す。石井機関は同じ1942年、中国戦線の戦場で腸炎を引き起こす病原体を散布したが、誤って日本軍が足を踏み入れ、1万人以上の患者を出し、死者は約1700人以上に上ったという。常石氏の話では、この時は腸パラチフス、コレラ、赤痢の菌が使われ、ゲルトネル菌は使われていない。「腸パラチフスやコレラ、赤痢菌と比べると一般的ではなく、欠点などについて試験していたのではないか」と常石氏。

 浜松でネズミを調査した軍医学校防疫研究室チームのメンバーは「ネズミの吸血昆虫の体内にはゲルトネル菌を認めなかった」と報告した。「戦場の疫学」は「ネズミにつくノミやシラミがゲルトネル菌を媒介するのであれば、それらの昆虫はこの細菌を兵器化するときには極めて重要な役割を果たすことになるためだろうか。(メンバーは)この点はもっと研究を続けたいとしている」と書いている。

©iStock.com

  石井らは、当初日本軍兵士に対するバイオテロの可能性を考え、石井自身も含めて大々的に現地を調査。その疑いがないと分かっても、今度は原因となったゲルトネル菌を細菌戦の兵器として使えないかという観点からさまざまな調査に手を伸ばしたと考えられる。そのことに気づいていた人間は陸軍内でもごくわずかだっただろう。

「浜松北高八十年史」には死亡した生徒と家族の名前が載せられている。罹病者は生徒883人(うち死亡29人)、職員21人、生徒の家族1161人(うち死亡15人)、職員家族51人。計罹病者2116人(うち死亡44人)という大惨事だった。6月9日には雨の中、慰霊祭が行われ、1周年の1937年5月10日には校庭の東南の隅に慰霊碑が建立された。

死亡した浜松一中生徒の名簿(「浜松北高八十年史」より)

【参考文献】
▽「浜松市史(三)」 浜松市役所 1980年
▽「静岡県警察史下巻」 静岡県警察本部 1979年
▽常石敬一「戦場の疫学」 海鳴社 2005年
▽「ドーランド図説医学大辞典」 廣川書店 1982年
▽辺野喜正夫・善養寺浩「新細菌性食中毒」 南山堂 1972年