大盤解説の佐々木勇気七段があまりの熱気にバテバテになっていた。これは助けてやらねば。こういうときには検討に来た若手棋士がリリーフするのが陣屋の定跡だ。控室には木村の弟子の高野智史五段がいた。彼は真剣な眼差しで盤面を凝視していた。「解説会には……でないよね?」。高野は「はい」とうなずくと再び盤面を見つめた。弟子も戦っている。
仕方ない、私では力不足だが弟弟子を休ませよう。勇気くん、ケーキを食べすぎるなよ?
将棋は木村らしい金上がりでペースを掴んだ。金銀の密着度ではなく玉の広さで勝負し、金は積極的に前を向くのが現代将棋だが、これは木村の駒さばきそのものだ。AIによって「時代が木村に追いついた」のだ。優位になった木村が落ち着いた指し回しで豊島将之王位に快勝した。
終わった瞬間高野は席を立った。「えっ、師匠に挨拶しないで帰るの?」と聞くと、「ええ帰ります」とキッパリと答えて陣屋を後にした。
打ち上げで木村に酒をつぎながら「高野くんが検討に来ていたんですよ。だけど終わったらすぐ帰っちゃってね」と言うと「来てたんだ……」とつぶやいて無言になった。彼なりの師匠への気遣いなのはわかっていた。しばらくして「師匠に一言くらい挨拶あってもいいけどねえ」と笑いながら私に酒をついだ。木村はどんな辛いときでも打ち上げでは笑顔を絶やさないが、陣屋でこんなにこやかな笑顔を見るのは初めてだ。
大声で泣きながら勝った小学3年生
下座に座る藤井聡太はあの時と全く違って涼しげだ。
2012年1月、小学生大会を見に行ったときのことだ。突然会場に大きな泣き声が響いた。小学3年生の部の準決勝で負けた子が泣きだしたのだ。その子は泣き止まないまま3位決定戦を指し、そして泣きながら勝った。負けて泣くのは珍しくないが、泣きながら勝つとは面白い子だな。後にドラの穴教室で子どもたちを指導する小島一宏さんに、「あの子は前年の小学生倉敷王将戦低学年の部で優勝した愛知の少年だ」と教えられたが、彼が日本中の話題を独占することになるとはこのときは夢にも思わなかった(たしか高見泰地七段が審判、佐々木勇気が指導でその場に居たはずだ)。
2020年6月4日、棋聖戦挑戦者決定戦、対するは永瀬拓矢二冠。私は観戦記者として盤側にいた。
終盤、藤井がおかしな手を指した。ところが藤井は平然としていて表情に変化はない。永瀬も私も異変に気が付かない。最後に永瀬がミスをして、最年少挑戦者が誕生する。局後その手について聞くと、
「いやあ見落としです。びっくりしました」と頭をかいて藤井は屈託なく笑った。おいおいあのとき泣きじゃくった子と同一人物か?
攻めさせる木村、意表をつく藤井
彼が2日制のタイトル戦の挑戦者として下座に座っている。あのとき泣いていた小学生が。