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 2000年12月26日、藤井猛竜王に当時5冠の羽生が挑戦した竜王戦の最終局、藤井が角を切り金を捨て羽生玉を捕まえに行き、羽生が玉を逃げ回る。と金は作ったがそれでも攻め駒が足りない。その状況下で藤井が戦いとは全然関係ないところで歩を取った。これが羽生玉の死命を制する歩であることがわかった時の控室の興奮が忘れられない。1989年に羽生が竜王を取って以降、タイトルホルダーは皆10代で棋士四段になっている。藤井が棋士になったのは1991年4月の20才のときだ(23才で棋士になった木村が、46才でタイトルホルダーなったというのがいかに偉業かわかるだろう)。

 藤井と羽生は同じ1970年9月生まれで誕生日は2日しか違わない。羽生が15才で四段になったとき、藤井はまだ奨励会にも入っていなかった。その藤井が羽生を破って竜王3連覇を成し遂げたのだ。勝利を呼び込んだ歩は「一歩竜王」と呼ばれるようになった。

2000年の竜王戦最終局。藤井猛竜王が羽生善治五冠(右)を破り防衛。勝利を呼び込んだ歩は「一歩竜王」と呼ばれる ©共同通信社

 藤井、と金での攻め、ちょうど一歩、あのときと共通点が多いなあ……山﨑が「これをすべて読みきっていたらすごい」と嘆息したのを聞いて現実に戻る。

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「なんだ、こんな手があったじゃないか」

 だが木村は諦めてはいなかった。玉を端に逃げて金の犠打を放つ。金を取ると詰めろが消え、相手玉を詰ますことができないので負ける。藤井は角を打ってその金と交換した。今度は桂の犠打が来た。これも取ると詰めろが消える。さすがは「受け師」木村だ。山﨑が「あきらめちゃだめなんだな」とつぶやく。

 桂の犠打に藤井の手が止まる。控室にはなんとなくほっとした雰囲気が流れる。この金と桂の連続犠打は読みになかったか。桂が取れないならこの手と、持ち駒の金を打っての寄せが検討される。ABEMAテレビでも広瀬章人八段が同じ手を検討している。これで藤井が残しているか、というところで谷川が声を上げた。

「なんだ、こんな手があったじゃないか」。そう、金打ちには3度目の金の犠打があったのだ。木村はこれを狙っていたのだ。

 別の手をということで「端玉には端歩」が検討される。散々つついた末になんとか寄りという結論になった。変化が多くとてつもなく難しい手順だ。

 そして藤井は61分考えて端歩を突いた。やっぱり間違えなかったか。罠にはまらなかったか。

 午後5時37分、95手にて藤井が勝利した。

2日目の午後5時37分、95手にて藤井が勝利 ©代表撮影:日本将棋連盟

 藤井は39手目に戦いを起こしてから1回も受けに回らず攻め続け、木村は最善を尽くしてありとあらゆる手段で守った。

 藤井でなければ攻めきれなかっただろう。木村でなければもっと短手数で捕まっていただろう。

 将棋の棋譜は2人で作り上げるもの。またも名局が誕生した。

「ええっ! プロなら第一感の手は考えなかったの?」

 感想戦後、記者会見の前に藤井と話をした。あの61分の長考はなんだったのか、金を打つ手は考えなかったのかと。

「桂の犠打も読み筋で、端歩も予定通りです。金打ちはあまり考えていませんでした」

――ええっ! プロなら第一感の手は考えなかったの?

「ええそうです。ただ難しい変化があって」その変化のことを聞くと、控室で長い時間をかけてようやく発見した手順をすらすらと述べた。

「寄せられなければ、負けてしまう展開になったんで、やっぱりちょっと危なかったですか?」

 私は言葉が返せない。超難解な寄せをノーミスで指しておいて何を言う? 高さ100メートルの場所にある長さ50センチの幅の板を命綱もつけずに「ゴールまで最速で」駆け抜けたんだぞ?

 目の前にいるのはまだ幼さも残る高校生のはず……はずだ。

 こうして第1局は終了した。7番勝負は4勝すれば勝ちだが、3敗までできるとも言える。後手番での敗北だから木村もダメージは少ないだろう。棋聖戦5番勝負での藤井や渡辺明三冠の作戦を見ることができるのも木村にとっては大きい。今後の戦いが楽しみだ。

(【続き】藤井聡太七段の師匠・杉本八段が明かす“東海の師弟物語”「永瀬さんは名古屋の終電に詳しくなった(笑)」 を読む)

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