受験して入った私学の女子校はいわゆる良妻賢母教育ではなく、自立を重んじる校風であった。生徒が全員女子というホモソーシャルな世界では、自分たちが社会的には“女”という存在であることを殊更に意識する機会はほとんどなかった。
生理は禁忌ではなく、“女の子らしくない子”がからかわれることもなく、委員会や部活動も男子がトップで女子がサブなんていう区分けはないので、人望のある者がリーダーになり、力持ちは重いものを持ち、おしゃべりは場を盛り上げ、適材適所で活躍した。もちろん人知れず性別違和に悩んでいた子もいたはずだが、少なくとも教育方針や同調圧力によって規範化された“女らしさ”の押し付けはなかったと記憶している。
母の言動の端々から感じた、抑圧された女の本音
家の中でも、男を立てて黙って耐えろという空気はなかった。母親は屈折した反骨精神の持ち主で、女の人生は男次第と信じながらも、男の言いなりになることには抵抗していた。
貧しいDV家庭に育った彼女にとって、昭和30年代にエリートサラリーマンと結婚して、専業主婦として首都圏の分譲団地で暮らし、夫の転勤で海外生活まで経験できたのはシンデレラストーリーの実現に違いなかった。母は家庭内では夫を立てる振る舞いをしてはいたが、生来の潔癖なまでの平等意識からふとした時に夫への反感や侮りを表してしまい、結果として娘たちに、抑圧された女の本音を雄弁に伝えることとなった。
母の分裂はそのまま2人の娘に受け継がれ、60年代生まれの長女は男女雇用機会均等法施行直後に大部分の大卒女性がそうであったように従来通りの腰掛就職をし、母よりも高い教育を受けながらも母と同じように寿退社をして、エリートサラリーマン家庭の専業主婦として生きる道を選んだ。一方で、70年代生まれの次女は男女雇用機会均等法施行から9年後に、男性と対等な待遇の専門職に就き、勤務先の放送局の“出入り業者”である制作会社の社員と結婚して、出産後も仕事を続けた。
後年、母は「娘の1人は私の理想通りの安定した人生を、もう1人は自立した華やかな人生を歩んでいて、どちらも自慢の作品だ」と満足げに述べた。娘を作品扱いするところに、他人の評価でしか自分の人生の価値を計れなかった女性の悲哀がにじんでいる。
就活をする時に考えたのは「父と同じになりたい」
私が就活をする時に考えたのは「父と同じになりたい」ということだった。過干渉気味の家族からも、母や姉のような男だのみの人生からも自由になりたかった私にとって、経済的な自立は必須だった。男をあてにしなくて良い、ということは男性と同等に稼げばいいということだ。自分が知っている生活レベルを維持するには、最低でも父と同じだけ稼ぐ必要があるということになる。しかし中堅私立大の女子学生が大手商社の正社員を目指すのは、現実的ではなかった。
他に一部上場企業の正社員として男性と同じ待遇で定年まで働ける仕事はないだろうかと調べるうちに、放送局に行き着いた。大学ではディベートのゼミに入っており、『NHK特集』が好きだったこともあって、報道記者やドキュメンタリー番組のディレクターになって社会課題の解決に貢献したいと思った。一方で、当時“女子アナブーム”でタレント化が進んでいたアナウンサーになって注目を浴びたいという気持ちもあった。