父のように稼ぎたいという気持ちと、母や姉のように“みんなが羨む女”にならねばという気持ちを抱えた若かりし頃の小島慶子さんがたどり着いた職業は「アナウンサー」だった。しかし、実際“女子アナ”になってみると、“女子アナ”に向けられる視線に、ひいては日本社会で女性の置かれた立場や女性に対する評価に違和感を覚えるようになったという。
『足をどかしてくれませんか。 メディアは女たちの声を届けているか』(亜紀書房)より、小島慶子さんのエッセイを掲載する。(前後編中、前編/後編を読む)
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私はいかにしてアナウンサーになったか
1972年生まれの私はいわゆる団塊ジュニア世代。子どもの頃、“日本は焼け野原から経済大国になった奇跡の国として、世界の尊敬を集めている”というストーリーを素直に信じていた。両親は昭和8年と12年生まれで幼少期に戦争を体験しており、2人とも飢えと貧困で苦労した。日本は戦争に負けて反省し、悪いことやひどいことは全て終わったと、親も教師もメディアも繰り返し語った。それを聞いて、豊かな日本で生まれた自分はなんてラッキーなのだろうと思っていた。
戦争はずいぶん前に終わったし、蛇口からはきれいな水が出るし電気もつくし、お腹を空かせて泣くこともないし、学校にも行ける。服も文房具もおもちゃも、いつでも手に入る。
なんと言っても、日本は世界が羨むお金持ちの国なのだ。父の書棚にあったエズラ・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の背表紙をぼうっと眺めながら、幼い私は明るい未来を信じていた。公害も差別も病気も、悪いことはぜーんぶ21世紀には解決するんだと思っていた。いい学校に入って、いい会社に入れば生涯安泰というおとぎ話が、奇跡的に現実になっていた時代に、私は世界と出会ったのだ。
まあそんなお花畑を生きることができたのは、たまたま東京で一部上場企業に勤める父と専業主婦の母の元に生まれたからで、要は相当な世間知らずでもあった。住んでいたのは東京西部の多摩丘陵を切り開いた新興住宅地。住宅ローンを組んで憧れの一戸建てを建てたサラリーマンたちの寄せ集めの町だ。都心まではぎゅうぎゅうの痴漢だらけの満員電車を乗り継いで、2時間近くかかる。
地域コミュニティの歴史がなく、親戚づきあいが希薄な上、中学から私学に進んだので地元の友達とも別れ、どこにも根っこが繋がっていない、宙ぶらりんの気持ちだった。しかしそのおかげで、地縁血縁の縛りがなく、家父長制的な因習や男尊女卑のしきたりなどとも無縁でいられた。学校でもテレビでも「今は昔と違って男女平等になりました」と聞かされていたから、そうなのだと信じていた。