「とうとう見つけてしまったのか……」
平成改元の約1年前、1987年12月1日付けで国立公文書館に採用された尼子昭彦のことを、公文書館の職員で事前に知る人はいなかった。公文書館による面接試験はなく、当時の総理府・内閣官房が採用を主導した。
尼子の直属の上司となる当時の公文書館公文書課長は、採用の少し前、若手の部下に尼子がどのような人物かを探るよう指示した。若手職員は仕事帰りに、採用前の尼子を最寄りの飲食店街に誘った。
毎日新聞東京本社が入る竹橋のパレスサイドビルは、皇居北側に位置し、公文書館から徒歩数分の距離にある。地下鉄竹橋駅に直結するこのビルの地下にある飲食店街が、公文書館職員の行きつけだった。
二松学舎大大学院の修士、博士課程で漢籍を学んだことなど、尼子の大学院での専攻や指導教官について、酒を飲みながら話を聞いたという。後日、若手職員は公文書課長に「落ち着きがあり、よさそうな人でした」と報告した。
では、誰がどのような理由で尼子を採用したのか。採用時の公文書館長は菅野弘夫。人事院総裁秘書官、環境庁秘書課長、総理府人事局長など、主に人事、秘書畑を歴任したキャリア官僚だ。1979年の元号法成立直後、当時の元号担当だった総務庁長官を支える事務方トップの総務副長官だった。この時期に、政府は昭和に代わる新元号の考案依頼を学者にしており、菅野も関与した可能性がある。その後、89年から94年まで、皇太子・徳仁(現在の天皇)の世話をする宮内庁東宮職のトップ東宮大夫を務め、皇室とも縁がある人物だ。経緯を知る可能性があったが、2009年に86歳で亡くなっていた。
当時を知る元職員を探す中で、元内閣官房幹部に17年11月、都内のホテルで話を聞くことが出来た。これまで何度か会ったことがある人物だったが、顔写真入りの尼子が書いた専門誌の記事を見せると、平静を装いながらも口調が変わり逆質問された。
「どこでこんなの見つけてきたの?」
「専門誌に書いてあるのを、たまたまですが見つけました」
「これを探してしまったか」
さらに、平成改元前後の中央省庁の『職員録』を見せ、本来は公文書館職員であるはずの尼子の名前が、内閣官房内政審議室の欄に記されていることを伝えた。
元幹部は「うーん。とうとう見つけてしまったのか……」と経緯を教えてくれた。ただし「記事が事前に出ると困る。新元号発表の時に書いてくれれば、一つのスクープですよ」と条件を付けられた。私もそのつもりで取材をしていたので、了解した。