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蓮實の言葉は「撮る者にとってはカコクな試練」

 たとえば、スピルバーグ監督の『未知との遭遇』を見て、「円盤が飛んでいました」と答えるのはありだが、間違っても「特撮がすごかった」と付け足してはいけない。もし、そう答えたのなら、蓮實から「特撮というのはどこに映ってたんですか」「特撮か特撮でないかはどうしてわかるんですか。本当の円盤かもしれないじゃないですか」などと突っ込まれるのは必至だ。「でもパンフレットに特撮って書いてありましたから」と言い張っても、「それはパンフレットに書いてあったんでしょう。映画には映っていないはずですよ」と返されてしまう。

1977年公開のスティーブン・スピルバーグ監督「未知との遭遇」

 こうやって学生たちは、映画は画面に映っているものがすべてということを徹底して教え込まれた。周防にとってそれは新鮮だった。後年、《それまで僕は映画監督になるという強い意志もなければ、なれるとも思ってなかったのに、蓮實さんの授業を受けてて“あっ、僕にも映画が撮れるかもしれない。僕にも映画監督ができそうだ”というふうになぜか思ってしまった》と振り返っている(※3)。

 黒沢清もしだいに要領がわかってくると、「この映画、何が見えましたか」「ドアが15回見えました」「はい、そうでしたね」と“模範解答”ができるようになった(※3)。ただ、当時すでに映画を撮り始めていた彼には、《蓮實さんの言うことは撮る者にとってはカコクな試練》でもあった(※3)。何が映っているかが勝負だというのはわかったが、では何が映っていればいいのか、何を写せばいいのか、見当がつかなかったからだ。

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《非常にまいりましたね。偉い監督は、これこれを表すために、こう撮るんだっていうならいいんですけど。ドアを十五回写せば果たしていいんだろうか、十三回じゃいけないのかとかね。ドアじゃなくて窓じゃいけないのかとかね。ほとんどもう荒唐無稽な発想になってしまうわけですね。何が何だかわからないという感じで、そこからは大変苦労しましたね、撮るのにね》(※3)。

教え子が映画監督になったことを喜んだ

 黒沢は大学4年のとき、長谷川和彦監督の『太陽を盗んだ男』の製作進行を担当、商業映画の世界に足を踏み入れる。1983年には初めて35ミリフィルムで『神田川淫乱戦争』を撮り、商業映画での監督デビュー作となった。これに助監督のひとりとして参加した周防正行も84年、『変態家族・兄貴の嫁さん』で監督デビューを果たす。

沢田研二主演の「太陽を盗んだ男」 1979年公開
周防監督のデビュー作「変態家族・兄貴の嫁さん」

 いずれもピンク映画と呼ばれる成人映画だったが、蓮實は教え子が映画監督になったことを喜んだ。雑誌で連載していた映画評でも2人のデビュー作についてとりあげ、《周防正行の『変態家族・兄貴の嫁さん』を見そこなったものは、黒沢清の『神田川淫乱戦争』をまだ見ていないものと同様、現代映画を語る資格はないといまから断言しておいてもよい》という具合に、独特の文体で讃辞を送った(※4)。

「神田川淫乱戦争」は黒沢清監督の下、周防監督も出演している

「映画表現論」の授業では、毎年秋に有志が自分たちの撮った作品を披露するのが、黒沢が在学中に始めて以来恒例となった。万田によれば、蓮實はたとえ学生であっても、映画をつくるということそのものに対してリスペクトをもって接してくれていたという(※2)。だから上映に際しても、厳しい評価は一切せず、「あのシーンはどうやって撮ったんですか」とか「あそこはこうなっていましたね」などとコメントをした。