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「映画とは画面に映っているものがすべて」 蓮實重彦門下の監督たちが活躍する‟コワい理由”

立教大「映画表現論」で学んだ真実

2020/11/17
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「カメラをどこ置きゃいいのよ!」の葛藤

《つまり、人が向かい合っている状態で、両方の人の視線を同時にカメラのフレームに収めることは物理的に不可能なんです。人の視線を撮ろうとすれば、二人ともカメラの方を向いてもらうか、一人ずつ切り返して撮る必要が生じてきます。つまり、自然に二人が向かい合っている状態を撮影するのは無理なんです。

 しかし、映画では往々にして二人は向かい合うものなのです。何かを話したり、殴り合ったり、二人の人がある関係に入った場合、どうしても向かい合うほかありません。しかし、カメラは二人の横にしか入れない。人が向かい合ってしまったら、「カメラをどこ置きゃいいのよ!」ですよ。「お二人とも前向いて話してもらえますか」とか「目線をカメラから外して下さい」と言って演じてもらうとか、色々その場で考えてはいますが、今に至るまで根本的な解決に至っていません》(※6)

向かい合う蒼井優と高橋一生 『スパイの妻』予告編より

 学生時代に教えられた映画が根本的に抱える問題が、その後、監督になって何とか乗り越えようと試行錯誤を重ねてもなお解決にいたらない。国際的に評価を得た作品でも、「失敗」と認めざるをえない箇所が出てくる。蓮實はそうした点を批判こそしないが、けっして見逃さず、感想や質問という形で指摘する。つくり手の立場からすれば、やはり畏怖すべき存在だろう。

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「あいつらが撮ってるからいいか」

 それにしても、蓮實自身には映画を撮りたいという気持ちはないのだろうか。教え子たちの集まった座談会で、これについて司会者から訊かれ、黒沢は次のように答えている。

黒沢清監督 ©文藝春秋

《蓮實さんのなかに映画を撮りたいという欲望は、かつては間違いなくあったと思うんですけど、今は僕たちが質はともかく量を次々と撮っているので「あいつらが撮っているからいいか」というふうになったのかなと。だからもしかしたら僕たちは蓮實さんに操作されて代わりに撮っているのではないかという気さえするんです。それで僕たちがさっぱり撮れなくなったとき、初めて「じゃあ俺が撮るか」と言って出てくるかもしれません》(※2)

 それでも教え子たちはまだまだ旺盛に作品をつくり続けている。昨年暮れには周防正行の『カツベン!』が公開され、今年10月末には万田邦敏の新作『愛のまなざしを』が映画祭「東京フィルメックス」のオープニングを飾った(公開は来年予定)。蓮實が自ら出てくる幕は当分なさそうである。

※1 武藤起一編『映画愛 監督編』(大栄出版、1993年)
※2 『ユリイカ』2017年10月臨時増刊号「総特集・蓮實重彦」
※3 『キネマ旬報』1993年7月下旬号
※4 蓮實重彦『シネマの煽動装置』(話の特集、1985年)
※5 『文學界』2020年11月号
※6 黒沢清『黒沢清の映画術』(新潮社、2006年)

「映画とは画面に映っているものがすべて」 蓮實重彦門下の監督たちが活躍する‟コワい理由”

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