話は前後するが、国会に行こうとする加藤を谷垣ら同調者の多くが止めるなか、1人の議員が《行きましょう。ここまで来て、行かなきゃ国民に見離されますよ。勝ったって、負けたって関係ないから、闘いましょう》と語りかけていた(※2)。それは誰あろう、当時、加藤派に所属した現首相の菅義偉である。菅はこのとき衆院議員になって4年、2期目に入ったばかりだった。
実は“造反側”にいた後の有力議員たち
あらためて思い返すと不思議なことに、「加藤の乱」で造反側に回ったなかには、谷垣、菅とのちの自民党総裁がいたことになる。このほかにも、今年の総裁選で菅と争った元外相の岸田文雄(当時、加藤派)や、小泉純一郎政権で幹事長を務めた武部勤(同、山崎派)など、のちの党の実力者たちも造反に参加していた。加藤と山崎も含めて彼らが自民党にとどまれたのも、「加藤の乱」のあとで野中や古賀たちがとくに処分を行なわなかったからである。
野中は、橋本龍太郎政権時に幹事長を務めた加藤を幹事長代理として支えるなど、もともと加藤とは関係が深かった。リベラル寄りの政治信条からして、森より加藤にずっと近い。古賀もまた加藤には将来に期待をかけていた。それだけに、党のために加藤の動きを封じなければいけなくなったときには、2人して泣いたという(※3)。
野中は「加藤の乱」を鎮圧したあと、森に対しても「不信任案の否決はけっしてあなたの信任を決定したものではない」と諌めた。だが、これに森が怒っていたと聞き、幹事長をやめるにいたった。
野中や古賀だけでなく、反旗を翻された側の森も、じつは自分の後継者にひそかに加藤を考えていたという(※4)。だが、加藤は焦ったためにそのチャンスを逃してしまったことになる。
森内閣の支持率は「加藤の乱」のあとも低迷を続け、翌2001年3月に森は退陣を表明。後任を決める自民党総裁選では、小泉純一郎が国民の高い支持を背景に勝利を収める。「加藤の乱」が不発に終わったあとも、新たなリーダーを求める人々の思いが小泉政権を生んだといえる。