2016年7月26日未明、相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で、施設の元職員であった植松聖は、入所者19人を殺害、26人が重軽傷を負う凄惨な事件を起こした。なぜ彼は障害者を全否定するのか。植松との面会を重ねてきたノンフィクションライターの渡辺一史氏が綴る。(「文藝春秋」2021年6月号より)
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控訴を取り下げるのは「かっこ悪いから」
「私は、どんな判決でも控訴いたしません!」
植松聖(31)は、横浜地裁の最終意見陳述でそう宣言した通り、昨年3月30日、弁護側の控訴を自ら取り下げ、確定死刑囚となった。
私が、植松と最後に横浜拘置支所で面会したのは、その1週間後の4月6日のことだった。月刊『創』の篠田博之編集長も一緒だった。
篠田さんは、数々の死刑囚や受刑者らと交流し、その実像を発信し続けている人だ。植松とも、最初に彼の接見禁止が解かれた2017年以降、数十回もの面会を重ねる。
私は篠田さんとともに、植松が少しでも控訴の取り下げを先延ばしするよう説得を続けてきた。死刑が確定すると、刑場のある東京拘置所へと移送され、それ以降は外部の人との面会や手紙をやりとりする自由も制限されるからだ。植松と社会との接点がほぼ失われることになる。
「控訴審が始まる直前に取り下げても、キミが嘘をついたことにはならないんだから。急ぐ必要はないよ」
そういって篠田さんが何度も提案したのだが、「ダラダラしてても、かっこ悪いし、潔くないんで」。
結局、植松を翻意させることはできなかった。植松は判決に納得したのでも、ましてや被害者への思いから控訴を取り下げたのでもない。
「二審三審とだらだら裁判を続けるのは、かっこ悪いから」
彼特有の“かっこいい・かっこ悪い”という価値基準で判断したにすぎない。被害者家族が口にした「自分が犯した罪としっかり向き合ってほしい」という言葉に対しても、
「自分こそ、『心失者』は社会に必要ないという事実と向き合うべきだ」と悪びれない口調でいった。