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「新憲法の下においても、天皇の保有する国家上の地位は一般国民とは相当の相違がある。天皇個人に対する誹毀、誹謗行為は、日本国民並びに日本国民統合の象徴にひびを入らせる結果となるもので、刑法不敬罪の規定がいわゆる名誉棄損の特別罪としてなお存続しているものと解するのが相当」。新憲法の文言を利用した巧妙な論理といえるだろうか。あるいは、それまでの国家体制が完全に崩されていくのに対する保守層のせめてもの「しっぺ返し」だったのかも。

二転三転する判決

 被告側は直ちに上告。提出された上告主意書で布施弁護人は、控訴審判決を「陰険狡智な恥知らずな詭弁」などと批判。正木弁護人は「日本の在来の天皇制国体が人類史上まれなる非民主的国家の典型であり、それがいかに無知であり残忍であり亡国的であるかは、この戦争が厳然たる事実をもって証明したもので、これ以上明らかなる証明はないのである」などと激烈な反天皇の持論を展開。「不敬罪は存在しない」と主張した。そして1948年5月26日の上告審判決。5月27日付朝日のベタ記事の中心部分は――。

最高裁で上告棄却

 26日、最高裁で三淵裁判長から、昭和21年11月3日の大赦令により公訴権が消滅する以上、被告も無罪の判決を求めることは許されないとの理由で上告棄却の判決言い渡しがあり、第二審の免訴が確定した。

上告棄却の最高裁判決(朝日)

 判決の多数意見は、控訴審が実体審理をして不敬罪が成立するとしたことも批判した。控訴審判決をほぼ是認する少数意見や、弁護側の主張同様、被告を無罪とする少数意見もあった。既に、刑法の一部改正は控訴審判決後の1947年10月26日に公布され、不敬罪は姿を消していた。

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「法律時報」1988年7~8月号掲載のD.J.ダネルスキー「プラカード事件をめぐる法と政治」には、この間、吉田茂首相ら保守派がすさまじい執念で不敬罪の存置をGHQに働きかけ、はねつけられたことが資料を基に書かれている。

 そうやってみると、一審から上告審まで、裁判はその時の政治情勢、特にGHQの意向と、憲法改定における天皇制の位置付けをめぐる動きに振り回され、右往左往した印象が強い。こうしてプラカード事件の裁判は終わった。

「革命」の潮引く

 食糧メーデー当時の社会の雰囲気について「東洋経済新報別冊第9号」に掲載された松島榮一「食糧メーデーから二・一ストへ」という論文は、「それは人々にとって、まさに(革命への)日は近し、と思われ、『暁は来ぬ』という感慨を催す光景でもあった」と記述する。「天皇制打破」「民主革命政府樹立」を主張した共産党も、このころまでは連合国軍を「解放軍」と見ていた。

 しかし、世界の情勢は刻々と変化していた。イギリスの首相を退任したチャーチルが訪問先のアメリカで東西冷戦を示唆した「鉄のカーテン」発言をしたのは同じ1946年の3月。日本の占領政策にもその影は及び始めていた。その1つの表れが食糧メーデー翌日の1946年5月20日に出た連合国軍最高司令官の「暴民デモ許さず」(5月21日付朝日見出し)という声明だった。

 マッカーサー元帥は20日、「多数の暴民によるデモと騒擾に対し警告を発する」次の声明書を発表した。

 

余は、組織された指導の下に、集団的暴行と暴力による脅迫の傾向を増しつつある事実が、日本の将来の発展に重大なる脅威をもたらすことにつき、日本国民の注意を喚起する必要を認める。(朝日記事)

食糧メーデー翌日にマッカーサー元帥が出した声明(朝日)

 声明は、民主主義的な方法による合理的な自由は全て許可されるが、規律なき分子が開始しようとしているごとき暴力の行使は、今後その継続を許されないであろう、などと強くクギを刺していた。

「この結果、東京の『革命的高揚』は潮が引くように収束していく」と福永文夫「日本占領史 1945~1952」は記述。「朝日ジャーナル 昭和史の瞬間」所収の塩田庄兵衛「はたらけるだけ食わせろ―食糧メーデー」も「この最高権力者の決意表明は強烈な一撃であった。5月22日、第1次吉田内閣が成立した。民主人民戦線運動の潮は引いた」と書いている。

主婦や子どもも「食糧を」と訴えた(読売)

「入江相政日記 第2巻」は「マッカーサーのきのうのデモ抑圧に関する指令で左翼は急に弱くなってしまい、きょう役所に来たこの間からの左翼の連中も急に小さくなってしまったらしい。これだから、日本人には愛想が尽きるというのだ」と冷ややかに書いている。