言い渡された判決は…
初公判は1946年8月2日に東京刑事地裁で開かれた。弁護団には、昭和初年の「朴烈事件」の弁護などを担当して人権派として知られた布施辰治や、軍国主義批判を続け、個人雑誌「近きより」を発行していた正木ひろしら“反権力の闘士”が参加。
8月3日付朝日は2面トップで「檢(検)事側と辯(弁)護團(団) 劈頭(へきとう=最初)から論戦」の見出し。布施が、治安維持法廃止後の不敬罪についての見解などを検察側に迫った。
この日は、「300枚の傍聴券も出し尽くし」、初めてニュース映画のカメラが法廷に入って話題に。同年9月12日の第2回公判では検察側が「天皇は現行憲法に基づいて国家を統治しているのは事実。不敬罪が保護する天皇と皇室の栄誉ばかりでなく、天皇に象徴される国家存立と国民統合体の利益だ。公共の福祉の範囲を超え、天皇を、誹毀(悪口を言う)、誹謗、中傷するものは不敬罪に該当する」と弁護側の主張に反論した。
その後の公判では、被告の松島氏が天皇制批判を展開。朝日、毎日の編集局長らまで証人として登場した。
同年10月28日の第9回公判で検察側は懲役10月を求刑。そして11月2日、判決が言い渡された。「名誉毀(棄)損で八ケ月 不敬罪は成立せず」(朝日)、「名誉毀損とし 懲役八月言渡し」(毎日)、「名誉毀損罪と裁定」(読売)。3紙はこう見出しにとった。
不敬プラカード事件の松島松太郎氏(33)は去月28日、不敬罪として懲役10月を求刑されていたが、2日、不敬罪ではなく、名誉棄損罪として懲役8月の判決を言い渡された。
2日の公判は午前10時15分、東京地方裁判所、五十嵐裁判長、吉河検事係りで開廷。裁判長は「天皇の個人性を認められるようになったこんにち、かかる天皇の一身に対する誹毀、侮辱などにわたる行為については、不敬罪で問擬(立件できるかどうか検討する)すべき限りではなく、名誉棄損罪をもって臨むを相当と認む」とて、刑法第230条第1項を適用。懲役8月と判決したものである。(朝日)
毎日によると、判決理由は次のようだった。「プラカード記載文言は野卑、侮蔑、扇情的で、公正に見て真摯な批判、風刺とは受け取れない。明らかに天皇に対する名誉棄損である。天皇の特殊的地位が変革し、天皇の個人性を認め得るに至った結果、天皇の一身に対する誹毀、侮辱は、不敬罪に問うべきでなく、名誉に対する罰条をもって臨むを相当とする」。名誉棄損は親告罪だが、現行刑法の下では天皇が被害者の場合、検察が代行できると判断した。
「予想できた判決」だった理由
この判決は予想できた。というのは、裁判中に、不敬罪をめぐって別の事案が起きていたからだ。「不敬罪で告訴 “熊澤天皇”とアカハタを」というベタ(1段)記事が同年9月8日付朝日に載っている。
民族派ジャーナリストが7日、“熊澤天皇”こと熊澤寛道、共産党書記長・徳田球一両氏と同党機関紙「アカハタ」編集部員ら3名を不敬罪で東京地方検事局に告発した(見出しの「告訴」は誤りか)、という内容。「熊澤天皇」とはこの年1月、アメリカ軍の準機関紙「スターズ・アンド・ストライプス(星条旗)」が、名古屋の雑貨商の熊澤を南朝最後の天皇の末裔(まつえい)として取り上げ、大きな話題を呼んでいた。