その後も受難は続く。2009年、レンジャーズの中軸を打ち、メジャー通算89本塁打の実績を引っ提げて来日したケビン・メンチ。2006年には右打者としては史上初となる7試合連続本塁打の快挙を達成し、一躍脚光を浴びた男だった。
ところが、開幕戦にスタメン出場したものの無安打。その後も調子が上がらず、15試合0本塁打、打率.148と散々な記録に終わった。まじめな人柄で、打てないとなると一塁にヘッドスライディングするなど必死のプレーを続けたことは、ファンにとってせめてもの救いだったのかもしれない。そり上げた頭で少なくとも威圧感はバッチリだった。
春先、阪神には毎年のように「バースの再来」がやってくるが、シーズンが始まるといつの間にか消えてしまう。「バースの亡霊」の存在感は今も大きい。
「巨人のクローザー」を期待されたミセリ
21世紀にはいると、「大物来日」が加速。日本のMLBファンも良く知っている選手の入団が相次いだ。
そのひとり、ダン・ミセリは9球団を渡り歩いた「ジャーニーマン」。2003年には4球団でプレーしたタフな救援投手で、巨人がクローザーとして期待して2004年のオフに契約した。ただ、2005年2月に来日したミセリを見て「写真よりも太っている」と感じた関係者もいたようだ。春季キャンプでも、ミセリのセットポジションは「日本ではボークになる」と指摘された。思えば暗雲は早くから立ちこめていた。
そして迎えた広島との開幕戦、2-1とリードした9回表にミセリは初登板。3番嶋重宣は初球に手を出して左飛。「なんだやれるじゃないか」と堀内監督以下ベンチは胸をなでおろしたが、ミセリがこの日取ったアウトはこれだけ。続くラロッカが同点本塁打、ミセリは自責点3で負け投手に。
その後3試合に投げるも、まさに「出れば打たれる」状態で防御率は実に23.63。挙句にミセリは右肩痛を訴えたが「同意なしに二軍降格できない」という契約を結んでいたため、球団は困惑し4月19日に解雇が決まる。放出されたミセリは浅草で人力車に乗ったことが報じられ、さらに顰蹙を買った。
アメリカ帰国後「俺は引退するはずだったんだ」と語ったミセリだったが、6月にはロッキーズでメジャー復帰。2008年春まで現役だった。プレーした球団だけでなく本人の気持ちもよく変わったようだ。