開会式直前の関係者“辞任ドミノ”に始まり、メダル候補のまさかの敗戦やダークホースによる下馬評を覆しての戴冠劇、コロナ禍で開催され、明暗含めて多くの話題を呼んだ東京オリンピック。ついにその長い戦いも閉幕しました。そこで、オリンピック期間中(7月23日~8月8日)の掲載記事の中から、文春オンラインで反響の大きかった記事を再公開します。(初公開日 2021年8月7日)。
* * *
日本スポーツクライミング界の女王・野口啓代(あきよ・32)に指先を見せてもらったことがあった。指紋がない……!
驚くこちらに野口が笑いながら説明する。
「試合や練習が続くと、手の指はホールド(突起物)を強く掴むので指紋がすり減ってしまうんです。だから、スマホの指紋認証はできないし、シャンプーの時は髪の毛が当たって痛いんですよ。でも指紋は、少し休むと再生されますね」
足も見ますか? と、靴を脱いだ。足の指先の第一関節に、ペンだこのように固く盛り上がったコブが、こけしの頭のごとく並んでいた。
「足の指を丸めて登攀靴を履くせいもあるんですが、クライミングは足の裏だけではなく甲も使うので、足の指にタコができてしまう。だから夏は恥ずかしくて、サンダルがはけないんです」
本格的に競技を始めてから16年。体の変形は、スポーツクライミング界のトップランナーであり続けた勲章でもあった。
その野口が、現役生活に終止符を打つ場所として選んだのが東京五輪。予選4位で通過した野口は、決勝戦の「スピード」で4位、「ボルダリング」4位、そして最後の種目である「リード」を迎えた。いつものきりりとした表情で壁に向かったが、体は疲労がたまり重そうだった。ほかの選手は体の回復が速い10代か20代の選手。30代は野口一人だった。
途中、一瞬体が止まった。もう体力の限界かと思った刹那、再び動いた。登攀している姿形は野口だが、魂そのものが一手一手蠢きながら登っているように見えた。
27ポイントのところで落下したが、この最後の一手が銅メダルをグイっと引き寄せた。
試合後、野口は悔しさをにじませながらも晴れやかな表情をしていた。