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乳がんの「予防切除」が実現したのは、一人の英国人女性の熱意だった

小島慶子が『がんになる前に乳房を切除する』(小倉孝保 著)を読む

2017/11/26
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『がんになる前に乳房を切除する』(小倉孝保 著)

 二〇一三年に女優のアンジェリーナ・ジョリーさんが手術を受けたことを公表して以来、日本でも遺伝性の乳がんの予防切除に関心が高まっています。

 著者は新聞記者として英国での実態報告をまとめた経験に基づき、予防切除の最前線と、立ち遅れている日本の現状に迫ります。

 驚いたのは、それまでの医学の常識を覆す予防切除という選択肢が、一人の英国人女性の働きかけで実現したということ。一九九二年、ウェンディ・ワトソンは家族の病歴から乳がんの遺伝を疑い、医師を説得して健康な両乳房を切除。今やイギリスでは全額公費負担されるようになった予防切除ですが、当時は医学界からの強い反発があったといいます。それでも同じ境遇にある女性たちのために粘り強く運動を展開したウェンディの熱意と勇気に胸を打たれます。やがて、彼女の一人娘も遺伝子診断を受けることになり……。

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 乳がんの発症率を高める遺伝子の研究には、ある日本人医師が大きく貢献しています。にもかかわらず、なぜ日本で遺伝性乳がんへの対応が遅れたのか。その背景には、遺伝への偏見がありました。健康な乳房の切除をめぐっては議論がありますが、自分ならどうするかと考えさせられます。

 本書には多くの女性が登場します。乳がんに怯える人生と、健康な乳房を秤にかけなくてはならない過酷さ。切除と同時に乳房を再建する人、しない人。術後の体を受け入れるまでの葛藤……著者の眼差しは、女性たちの生そのものに注がれています。各人の乳房への思いに丁寧に寄り添い、身体と尊厳が切り離せないものであることを生き生きと描き出す筆致は圧巻です。

 私たちは、自分の体をどう生きるのか。何を自分で決め、何を受け入れるのか。医療の流れが治療から予防へと変わる中、乳房の予防切除は、患者の自己決定権、リスク管理、クオリティ・オブ・ライフなど、他の病にも通じる問いをはらんでいるのです。

おぐらたかやす/1964年滋賀県生まれ。88年毎日新聞社入社。カイロ、ニューヨーク支局長、欧州総局長を経て、2015年より外信部長。英国の乳房予防切除の実態報告で14年、日本人初の英外国特派員協会賞受賞。

こじまけいこ/1972年生まれ。エッセイスト。近著に小説『ホライズン』、エッセイ集『るるらいらい 日豪往復出稼ぎ日記』等。

乳がんの「予防切除」が実現したのは、一人の英国人女性の熱意だった<br />

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