池谷裕二氏の最初の本『記憶力を強くする』(二〇〇一年)の書評に、米原万里さんはこう書いた。
「読み始めたら止まらない面白さなのだ。脳科学について全く無知な人でも理解できるように、基本的な事柄や今までの研究の足取りを、目も覚めるような鮮やかさで整理してくれる」
最新作の本書にも、この評はそっくり当てはまる。
内容は、結婚十一年目にして授かった愛娘の、生後一カ月~四歳に到る成長観察記録。「育児? 関係ないよ」と言うなかれ。池谷氏が「3歳までの脳は、ヒトではなく、サルに近い」と冗談ぽく書いているように、これは我々がいかにしてサルからヒトになるかというサイエンス・ノンフィクションなのだ。子育て、孫遊びに関わる人はもちろん、かつて赤ちゃんだった人なら、自らの無意識のアルバムを開くような驚きと不思議さにとらわれるだろう。
記述は一カ月単位。一歳の「指差し」、一歳八カ月での「イヤイヤ期」など、成長に応じたキイワードが示される。たとえば二歳一カ月での消防車の話。「消防車は何色?」と聞くと「赤」と答える。ところが、大人と違って、日陰に入った消防車は「黒」だと言う。
「娘が言うことは光学的には『正しい』のです」「これは『色の恒常性』と呼ばれる現象です。娘は最近、消防車が日陰に入っても、夜道で見かけても、『赤』と言うようになりました」。……なるほど。そう言えば私の孫にも同じことがあったぞ。
「明日」と「明後日」の区別は三歳四カ月までできなかった。「明後日」は、いったん「明日」の時点に視点を移動させなければ理解できない。サルには到底無理なのだ。そうか、「アサッテの方向」って、「明日」の視点が飛んじゃってるわけかと深く納得。
ウソもまた高度な認知プロセスだという。ウソをつくためには、(1)何かをしたいという目的がある。(2)自分は真実を知っているが、相手は知らないという認識を持つ。(3)目的達成のための手段を思いつく。――の三つの認知が必要だ。「予測と対処」こそが、人間の脳の本質なのである。子供がウソをつくようになれば、めでたくヒトになったということか?
冷静な観察と同時に、本書は男親の温かな視線が溢れている。二歳六カ月、保育園で月見団子を作ったとき、愛娘の団子は驚くほど小さかった。「これは何?」と聞いたら、「アリさんのために作った」との答え。思わず「可愛い!」と言いたくなる叙述が、全編に満ちている。
優れた観察も、優れた表現も、対象への愛が不可欠だと気づかせてくれる本でもある。
いけがやゆうじ/1970年、静岡県生まれ。東京大学薬学部教授。専門は神経科学および薬理学で、脳の成長や老化について探究している。『海馬』(新潮文庫)、『進化しすぎた脳』(講談社ブルーバックス)、『受験脳の作り方』(新潮文庫)など著書多数。
ひらおたかひろ/1946年生まれ。評論家。出版社勤務を経て、現在、神戸市外国語大学客員教授。著書に『宮沢賢治』がある。