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近隣の人たちの語る「熊沢天皇」

 日本のメディアの独自取材記事は同じ20日付で、熊沢の住居のある名古屋の地元紙・中部日本新聞(現中日新聞)が最も早かったようだ。同紙は前日19日付はデーリー・テレグラフの記事を引用したロンドン発ロイター=共同電を載せたが、この日は2面3段で「菊花の紋も天下御免 南朝再興 熊澤寛道氏とは」の見出し。「系図を説明する熊澤氏」の写真付きで次のように書いている。

日本の新聞で初めて独自取材した中部日本新聞の記事

「作業服姿で語る氏は頭がはげて精力的な、見るからに一徹者らしい風采だ」「『写真を』と言えば、菊花の幕を部屋に巡らし、自分はあらためて紋服に着替え『さあ』とばかり、系図の巻き物を調べるポーズをつくる熊沢氏でもあった」「『10年ほど前に所轄署で16弁の菊花紋を使用してはいかぬと言われたが、家紋だからと拒絶した。そのほか何も言われたことはない』と言っている」

「近隣の人たちは、偏ったところがあり、なかなか利かん気の人だが、家庭は円満なようです、商売は今市市場に商品を出したり、青果物を売っているが、あまり大きくはやっていない」「と『熊沢天皇』について驚き気味に語っていた」

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 翌1月21日付読売報知も社会面2段、顔入りで「“熊澤天皇” 名古屋で洋品店」の見出し。「天皇」の身元を確認したという内容だ。こちらにも本人の談話が付いている。

 非常に慎重を要する問題ですから、私の口からとやかく申すのは誤解を招くのではないかと心配しています。私の父、大然が明治16(1883)年ごろから証拠集めに乗り出し、同41(1908)年、自分が南朝の直皇系であること、時之島の古墳を熊沢の墳墓と認めること、八幡社を昇格させることを請願、上奏したのをはじめ、私の代に至るまで数度にわたり上奏しましたが、全て却下されました。

「父」とあるが、寛道は大然の養子で、もともと熊沢一族の出身。時之島は現愛知県一宮市。読売報知は2月3日付でも「“熊澤天皇”帝都へ」の見出しで、熊沢が上京して知人宅にいると伝えた。

全国各地で講演会を開催

 記事の中で熊沢は名字について「南朝9代目の天皇、熊野宮信雅王のとき、尾州・時之島に入御。熊野の熊と沢邑の沢をとって、かく名付けたのである」と説明。「沢邑」とは、「信雅王」が応仁の乱に敗れて逃げ落ちた福島県の地名。そののちに時之島に本拠を移し、寛道がそこから名古屋に出てきたのだという。

 さらに4月20日付読売報知2面コラム「街」は、同月22日午後1時から東京・芝区(現港区)田村町の飛行館で「熊沢天皇真相発表会」が開かれるのを一種ジョークのように取り上げている。