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「ばかばかしい」投書が…

 1962年に出版された著書「南朝と足利天皇血統秘史 万世一系はいづこ」の冒頭にも「LIFE」の記事を掲げ、その説明に「昭和二十一年マッカーサー元帥が全世界に裕仁天皇は歴史的の天皇ではなく、ヒロミチ(熊沢)天皇は沢山の証拠をもつ。これが真の日本天皇であろうと発表した記事」と書いている。

著書に「LIFE」の記事と、それを「マッカーサー公認」とした文章を載せた(「南朝と足利天皇血統秘史」より)

「Stars and Stripes Pacific」の記事に出てくる5人のジャーナリストのうち、コーネリアス・ライアンはその後、「史上最大の作戦」などで知られる作家になるが、「ヒロミチ天皇」については、フランク・ケリーとの共著「Star-Spangled Mikado」(1947年)に書いているという。

 秦郁彦「熊沢天皇始末記(上)」(「正論」1989年6月号所収)によれば、その取材に至るいきさつは次のようだった。

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 前年の1945年11月、東京・丸の内にあった連合国軍総司令部(GHQ)G2(参謀第2部)所属の翻訳通訳部(ATIS)で、若い中尉が1通の封書を読んで「ばかばかしい」と放り出した。

 同部は、日本国民から寄せられた投書の翻訳と分析を担当していた。部屋に来合わせていたローターバックが興味を持ち、「訳ができたら読ませてくれ」と頼んだところ、中尉は封書を貸してくれた。それが“ヒロミチ天皇”のマッカーサー元帥宛て請願書だった。内容は「侍従長」格だった吉田長蔵の著書「新天皇論」(1952年)に載っているが、「現皇室は往昔、足利軍閥の私に利用せんとして擁立したる北朝の天皇の血統」であって「皇位の正当なる継承権は大覚寺統、すなわち南朝に存す」と主張していた。

 ローターバックは他の記者仲間にも声をかけて勉強会を開くなどして内容の理解に努めた。代理人に連絡をとったうえで、米軍専用車両で東京を離れたのはその年のクリスマスの日。夜半に名古屋に着き、米軍用ホテルでジープを借りて名古屋市内の“ヒロミチ天皇”の家に向かったという。

正装した「熊沢天皇」と妻子。初めて米英ジャーナリストが訪問したときに撮った写真と思われる(「画報近代百年史第17集」より)

時代のタイミングとシンクロした「熊沢天皇」

 国内の新聞も19日付で朝日と読売報知(当時)が「星条旗」を引用して報道。当時、日本の新聞は朝刊のみ、原則2ページ建てで、朝日は2面コラム「青鉛筆」だったが、読売は2面最上段に「“我こそ正統の天皇” 名乗りをあげた南朝の後裔 マ元帥へ陳情書提出」の横見出しだった。

 読売の同じ紙面には「ふえた天皇制論議」の記事が。同紙の「叫び」という投書欄で、投書の第1位は天皇制の問題で全体の2割近く。ラジオの座談会に刺激されたとみられるが「一般国民の間にいかに天皇制に対する関心が高まっているかが分かる」と記事は書いている。