現代女性のあり方は、一つのはっきりした方向に向いているわけではない。その中で、JJの読者たちが求める仕事の選び方、オフィスでの立ち位置、先にある目標などが示すのは、男性と同じ教育を受けて同じ会社に入る権利があっても、同じ理由で選択することはない、ということだ。当然90年代の女性たちは、現在よりも世間的な壁が高かったとはいえ、男性と同じ理由で大学や仕事を選ぶ権利を持っていた。あるいは、人と絶対に違うことをして目立つ、自由を重視して生きていく、など別の意志も存在し得た。その中で、JJ読者たちが持っていた方向性ははっきりとしていて、男性に対して高額な「ブランド品」であること、「女性としての喜び」を第一優先事項として選択を繰り返すことである。そしてそれが、10代で家同士のお見合いがあるような時代や、女性が大学に入らない時代、花嫁修業だけを続ける時代とはまた別の時代に、どのような形であり得たのか、ということは、当時のJJを見れば十分得心できる。
「女性として生きる」ことを選んだ女性のための雑誌
近年の社会が目標とする多様性とは、基本的に横に広がる自由である。セクシャリティや人種、国籍やジェンダー、ファッション、教育、文化が横に広がり、そこに縦の優劣を認めない態度こそが、現在理想とされる世界のあり方だ。その際、個人の選択にはある意味拠り所がなく、個性や意志を問われ続ける。自由ではあるが、不安との戦いでもあって、どのように生きるか、そのために今何をしているか、自分の選択には何の意味があるのか、と問われ続ける。単純な優劣で縛られない代わりに、自分のしていることを、間違っていないと後押ししてくれるような規範は不在だ。
JJが提示していたのは、横に広がる思想ではない。「女性として生きる」ことにサインアップした者が、その中で縦に伸びていくための手法である。誌面作りは多様な選択、多様なあり方、人とは違う生き方、前衛的な思想を推奨するものではない。自分たちがどこに向かっているか、何者であるかを繰り返し確認し、そのために次はどのブランドのどのバッグを持って、どんな格好でデートに行くか、どんな大学に入り、どんな進路を選ぶのか、それらを総合的に示すことで、女のコの生き方の一つの拠り所となった。「保守的」な女性の読み物であるという評価は単に男性受けを狙ったファッションが根幹にあるだけでなく、おそらくそうした、「女性以外のものにはならない生き方」への賛同がもたらしたものだと言える。
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