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振り返れば、同じ三谷幸喜脚本の大河ドラマ『真田丸』では豊臣家のために最後まで戦った弟・真田信繁(堺雅人)とは対照的に、徳川家につき最後まで生き残る兄・真田信之を演じていた大泉。大泉洋に散る役は似合わない。たとえ笑われても、呆れられても生きて生き抜く、それでこそ大泉洋ではないだろうか。
それぞれの事情はあるにせよ、人はその生命ある限り、生き抜かねばならないと私は思う。生きているからこそ季節が巡り、さまざまな歓びを噛み締められる。特に生きることが命がけだった時代ならなおさらだ。
しかし、生き続けることは同時に苦しさや辛さも背負うことになる。シリアスな状況から逃げ出したくなったり、行動することを面倒くさがったり、気分によって駄々をこねたりぼやいたりするのも、また人生なのだ。
その意味で彼は生きる歓びや辛さを表現できる数少ない俳優であり、そこに多くの人が共感する。人生の厄介さと嬉しさを体現する俳優、それが大泉洋なのである。
大泉自ら認める「人から押されていく人生」の妙味
では、このリアリティは一体どこから来るのだろうか。
昨年秋、Netflixのドラマ『浅草キッド』に出演した彼にインタビューをした際、彼は自ら「ぼやき芸」という言葉を使った。また、浅草芸人の生き様を描いたストーリーにちなみ、彼の“芸”とは何か、と尋ねたところ「究極の素人芸」との答えが返ってきた。
それはさすがに謙遜だと思うが、これまでの歩みを振り返り、「人から押されていく人生」「これからも周りの人におんぶに抱っこでやっていきたい」と自分を客観視している姿がとても印象的だった。それは彼の出世作である『水曜どうでしょう』からも容易にうかがえる。