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「学校側は『こっちも困っているんです』と言っていました」

 同日、学校は在校生保護者への説明会を開いた。それに先立ち、学校側は母親に保護者会を開催することを伝え、「ありのままを言うだけです」と説明したという。母親は「何があったんですか?」と聞いたが、何も答えなかった。母親は保護者会には出ていない。その後、マスコミの問い合わせに応じる形で学校は記者会見を開いた。しかし、母親は記者会見のことを「報道で知りました」という。

「学校には不信感しかありませんでした。息子が『副担任は嫌だ』と言っていたため、担任が『副担任は私がちゃんとみます』と言っていました。そのことが学校で共有されていると思っていました。翌日、学校側は自宅に来ました。『なんで記者会見を開いたんですか?』と聞きましたが、学校側は『こっちも困っているんです』と言っていました。ますます不信感を強めました」

 1週間ほど経ち、学校側は全校生徒にアンケートを実施すると伝えてきた。後に知らされた内容を読むと、〈亡くなった頃、自分から「死にたい」と言っていたらしい/机に「死にたい」と書いていたらしい〉と、伝聞情報ながらも、希死念慮を抱いていたことがわかった。〈3学期になってから、ろうかですれ違うたびお腹を両うでで抱え込むように歩いていて、1人でぶつぶつ言いながら歩いているのを見た〉ともあり、同様の証言が教職員からもあった。

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 池田町が設置した調査委員会による報告書では、ヨウヘイさんの自殺について「担任、副担任の厳しい指導叱責に晒され続けた」ことを理由に挙げている。では、前日の指導以外に、いったいどんな指導に「晒され続けた」のだろうか。

ヨウヘイさんが亡くなった後に書かれた報告書

副担任の不適切指導が始まってから「学校へ行きたくない」と

 中学2年のとき、ヨウヘイさんは前期の学級長に選出された。担任は1年次と同じ。副担任は初めての中学校勤務だった。副担任について、ヨウヘイさんはこの頃、「嫌だ」と漏らしていた。小学生のときに(当時、小学校で家庭科の講師をしていた)副担任にミシン掛けで残され、帰りのバスに間に合わなかったことがあったためだ。5月になると、ヨウヘイさんは「学校へ行きたくない」と言い出した。この頃から、副担任の不適切指導が始まっている。

「副担任のことで、突然、学校へ行きたくないと言い出したんです。『提出できない理由を言っても、言い訳と決めつけられるし、聞いてくれない』と言っていました。どんな宿題かは聞いていないですが。副担のことだから、国語だと思います。当時は見ていないのですが、亡くなった後に国語のプリントを見ました。すると、チェックが厳しい直しが入っていたのを覚えています。そういうことが辛かったのかな、と思います。

 その日は休ませようとしました。私は仕事で家を出ていたんです。しかし、担任が電話をしてきて、家庭訪問にきました。結局、遅れて登校をしたようです」

 副担任はどのように宿題の指導をしていたのか。そのヒントは、裁判で明らかになっている。1学年下の女子生徒が、証人尋問で証言をした。担任と副担任ともに、お気に入りの生徒とそうでない生徒で明らかに接し方が違ったという。