3人の女性弁護士と面会
裁判。縁のなかった2文字を初めて意識するようになっていた。
きっかけは、愛ちゃんのお母さんが自閉症の子を持つ親たちでつくる協会に相談したことだった。協会のメンバーが知的障がい児の虐待事件で実績のある弁護士や新聞記者にはかったところ、「民事裁判で解決するのがいいのではないか」という意見が寄せられていたという。
愛ちゃんのお母さんの話を聞くまで、警察に届け出ることも、民事裁判を起こすことも考えたことはなかった。一方で、学校側との話し合いに行き詰まりを感じていた。
「一度、相談に乗ってもらいましょう」
愛ちゃんのお母さんに連れられて、法律事務所を訪れた。
ホワイトボードがある6畳ほどの会議室に通されると、3人の女性弁護士が入ってきた。
愛ちゃんのお母さんから簡単にこれまでの経緯を説明すると、髪を三つ編みにした阿部弁護士が、ふっと息を漏らした。
「学校側は娘さんたちの被害の訴えを全く認めていないわけですね」
「はい。こちらもその場を目撃したり、証拠を持っていたりするわけではないので……」
「虐待の場合はなかなか加害者側が認めようとしないことが多いんです。特に性的虐待の場合は、密室で行われることが多いですからね。なにより、いまの日本の裁判では、子どもや知的障がい者の証言は簡単には受け入れられにくいんです」
阿部弁護士は、1990年代に放送されたテレビドラマ『聖者の行進』のモデルになった水戸事件で被害者側を支援する弁護団の1人だった。
水戸事件は、地元の名士だった段ボール加工会社の社長が、知的障がいの女性従業員たちに性的虐待を繰り返していた事件だ。しかし、警察や検察は刑事裁判で罪に問うことを見送った。
社長が否定しているうえ、被害を受けた日時や状況を正確に証言できる被害者が少ないため、「公判を維持できない」と判断したからという。
「時間と場所の説明は、小さな子どもや知的障がい者が最も苦手にする分野なんです。確かに刑事裁判で冤罪はいけません。だから、加害者が否定するととても厳密な立証が必要になってくるので、どうしてもいろいろな壁が立ちはだかってしまうんですよね」
このため、水戸事件のように、民事裁判での解決を探るよう勧められた。
「まず、経緯を紙にまとめていただけると助かります」
帰宅後、これまで聖子が告白した時に書き取ってきた手書きのメモも整理して、弁護士の先生にも見やすいようにパソコンで打ち込み始めた。
「あさがお学級の記録」と題して、時系列でまとめたファイルはすぐにA4判で7、8枚になった。転記したあと、広告の裏紙などに書いたメモはゴミ箱に捨ててしまった。この時は、もともとの紙を残しておくことが大事という意識がなかったからだ。
2回目は聖子たちを連れて、法律事務所を訪れた。「たこ糸やビニールテープで首を絞められた」という新たな被害についても話し始めた。
しかし、民事裁判は自分たちで弁護士を雇い、証拠をそろえるところから始まる。100万円近い手付金も必要だった。
「勝てるかどうかはわかりません」
障がい者や子どもが被害に遭った事件。その立証の難しさを幾度となく味わってきた弁護士の先生たちは正直だった。
ほどなく、愛ちゃんのお母さんから「民事裁判の件は駄目になった」と連絡が来た。詳しい理由は語らなかったが、どこかでボタンの掛け違いがあった様子だった。