結婚前には、ほのめかすような発言も
結婚発表の直前に収録されたインタビューで彼女は《デビューのときは、五年も保てばいいかな、と思っていたのに、もう九年目ですから。これからの目標といっても、とくに決めず、そのときそのときのやりたいこと、自分の好きなことをやって。これからどうなるかはっきりは言えませんけれど。結婚して引退?。(句点原文ママ)ハハハ、わかりません、それは》と、あとから読むと何やらほのめかすような発言をしていた(※5)。
薬丸と石川は、同じく1982年にデビューした中森明菜や小泉今日子などとともに「花の82年組」と称される。その前後にも多くのアイドルが生まれていただけに、競争も激しかった。
シブがき隊の場合、あとからデビューした少年隊が高いダンス技術をもってすぐに追い上げてきたうえ、チェッカーズや吉川晃司といった従来のアイドル像を覆すような手ごわいライバルも現れる。おかげで薬丸たちのなかでは、《四年目ぐらいで、早くも「マズイんじゃない?」みたいな空気が漂っていました》という(※4)。結局、シブがき隊は7年目の1988年に“解隊”する。薬丸はそのままジャニーズに残るつもりでいたが、ほかの二人が退所したのでそれに続いた。
「パパドル」というイメージに抵抗したが…
しかし、薬丸にとってはここからが大変だった。結婚した時点で、まだ仕事の先行きは不透明で、内心は不安だったという。結婚して4カ月後には、長男(現在俳優の薬丸翔)が誕生する。
これを境に周囲は「パパドル」として売り出そうとするも、彼は抵抗した。このころについて後年、《僕自身は父親や家庭の匂いを感じさせないアイドルのままやっていきたいし、やっていけると思っていたんです。でも、需要と供給が一致してないんだから、仕事が来るわけがない》と振り返っている(※3)。妻に仕事がないと思われるのがいやで、現場に出かけるふりをしてゴルフ練習場やスポーツクラブで時間をつぶしたこともあるという。
さらに追い打ちをかけるように1991年、4カ月かけてハワイで映画を撮るという仕事が、湾岸戦争の影響で中止され、そのあいだの仕事がまったくなくなってしまった。本人いわく《そのころから、だんだんと「一家の主として家族を守らなくちゃいけないのに、俺はなにをつまらない意地を張ってんだろう」と思うようになっていった》(※3)。2年後には次男も生まれ、息子二人の寝顔を見るうち、意識改革をしなくてはいけないと決意する。