文春オンライン

懐に手榴弾を忍ばせて…「首を縦に振らなかったらピンを離すぞというわけや」山一抗争の主要人物が語る、抗争勃発の“裏側”

『烈侠』より#1

2022/09/16

genre : 社会, 働き方, 読書

note

 死者29名、負傷者70名(警察官、一般市民含む)を出した史上最悪と言われる"山一抗争"。1984年から89年にかけて山口組と一和会の間で起こった暴力団抗争の発端、それは戦後、山口組を日本最大の指定暴力団へと急成長させた三代目組長・田岡一雄の死去に伴う跡目争いだった――。

 ここでは、一和会副会長兼理事長を務めた加茂田重政氏が半生を語った『烈侠』(彩図社)より一部を抜粋。山一抗争が勃発した知られざる経緯を、加茂田氏の視点で振り返る。(全2回の1回目/後編を読む

田岡一雄組長(中列左から3人目)を山本健一(田岡組長の右)、加茂田重政(同左)ら側近組長が囲む 『烈侠』より

◆◆◆

ADVERTISEMENT

「三代目の遺言」はなかった

「三代目の遺言」とかいう例の話やけどな、そんなの絶対ない。いまさら言うても詮無いことやけど、ほんまは山広が継ぐのが筋やろ。よりはっきり言えば、山広に順番がまわってきとった。それをあの人が勝手に決めたんやないか。それを「三代目の田岡の親分の遺言や」と言うて。

 姐さんのせいで一和会となったいう話もあるけれども、それはたしかやろ。姐さんが竹中を可愛がりよったからな。わしもなにかと反発するほうやんか、なんでも「はいはい」言うほうやないねん、気性的には。だから「マサはうるさい」と言われる、そういうところがあると思うわ。

 わし自身が四代目になるっていう頭(考え)はなかった。田岡の親分が亡くなったときに、「四代目は狙うなよ、そういう野心は持ったらあかんよ」と米田にも言われとったし、わしもそう言われて「そりゃそうやな」と思っとった。竹中とは貫目でいえば同じやし、人数的にはウチのほうが全然多かったんやけど、それは流れが決めることであって、自分から「わしが当代になる」と言うもんではないやろ。極道の実力は運も大事や。

 竹中とも、実際のところ山広が四代目を継ぐとの話で確認しとったんや。竹中も最初は四代目について「自分はいらん、そんな気はない」て言うてたんやで。竹中が神戸拘置所に入ってたときに、わしは面会に行ってるんや(昭和五58〈1983〉年6月)。そんときに「兄弟、山広に四代目を継がせ。あとはどうにでもなるやないか」「兄弟はまだ若いやないか」と言うて、竹中もそんときはそれで納得しとった。

 竹中が保釈で出てきた翌日、夜中まで飲んで話をしたとき、竹中は「兄弟、山広が四代目を継いだら、わしと一緒に『兄弟会』をこしらえんか」と言うてた。「兄弟、(山口組を)出よ、出て、二人で(新しい組を)作ろうや」とすら、竹中とわしとで言うとったこともある。 それも、竹中からや。山口組を割って出て、一本で行くいうような話もしとった。

 ところが、竹中は姐さんに言いくるめられて豹変や。それでわしの嫁も姐さんに呼ばれて、「マサのバカタレが、竹中と話はしなかったんか」「生一本な人間やから、一本になるのはともかくも、あっち(山広派)には行ってないやろな」とも言われとる。もう、その段階でわかったわな。「組が振り回されとる」と。