父は歴彦氏の人生も決めた。
「兄は経営者で、お前は金庫番になれ」「仕事に出ろ」
父の言葉に従い、入社前から歴彦氏は「行商」に出る。
〈僕の原体験は、冬の北海道で重たい辞書を抱えて、雪原の向こうに見える高校を訪問したこと。歩いても歩いても近づかないから、涙がポロポロ出てきてね。「何やってんだろう」と思ったよ〉
父の路線をおし進めた兄
角川書店の創業者・源義は、学者肌だが、大衆も重視していた。
〈源氏物語が偉いのは、平安時代から室町、江戸時代まで常にベストセラーで、今も読まれていることだ。大衆が読んで支えてきた〉(源義)
歴彦氏は「大衆に任せろ」という父の言葉を覚えている。
この大衆路線を推進したのが、父と反目していた春樹氏だった。
1965年に角川書店へ入社した春樹氏は、1970年に独断で、映画『ある愛の詩』の原作本を刊行。それがミリオンセラーとなった。
しかし春樹氏は、父は「冷ややかに見ていましたね」、「父はエンターテインメントで儲けることは角川書店の本義ではなく、邪道だと思っていました」と回顧している(伊藤彰彦『最後の角川春樹』)。
父・源義の死後、春樹氏は、『ある愛の詩』の原作本の成功で覚えたメディアミックスに邁進。みずから映画製作へ乗り出す。
角川映画の第一作は、一代で成功し、圧倒的な権力者だった家長・犬神佐兵衛の、奇妙な遺言がもとで連続殺人が起きるという『犬神家の一族』だった。
対立する兄と弟
『犬神家の一族』をはじめ、『野性の証明』『セーラー服と機関銃』とヒットを連発した角川映画だったが、好調は長く続かなかった。
映画に代わって角川の業績を支えるようになったのは、歴彦氏が主導した「週刊ザテレビジョン」などの雑誌事業だ。
また、歴彦氏が始めた、ゲームや美少女キャラを扱う雑誌「コンプティーク」は、いまのKADOKAWAを支えるサブカルチャー分野を切りひらいた。
〈「コンプティーク」をきっかけとして、角川スニーカー文庫、ファンタジア文庫、電撃文庫というラノベが生まれ、のちに花が開く。ただ、そういう金鉱に手を突っ込んでいる自覚はなかったね〉(歴彦氏)
「週刊ザテレビジョン」「コンプティーク」、さらには「東京ウォーカー」など続々と成功させて結果を出す弟に、兄は脅威を感じていた。