そもそも帆高が神津島を出るのも、東京本土であれば何かができると思ったからです。彼がなぜ家出したかについては、本編では決して描かれません。それは、一連の騒動の後に島に戻されてからも、です。新海誠自身は、トラウマの話に回収されたくなかったのでそのあたりのことはまったく描いていないと言っています(注1)。
帆高と陽菜の「現代的な」問題
一方で、本作は明らかに「親」的なるものとの断絶の物語でもあります。東京での擬似的な親である須賀との関係や警察、児童相談所といったものが、本当の意味で若者たちを守れているのかを本作は問題にします。「大人になる」ことをある一定のイメージにあてはめようとする人たちに、帆高は反抗します。
『天気の子』を観ていて気がつくのは、帆高の家出にはまったく深い理由がないということです。ある種の思想を欠いた、成り上がりの精神だけが最初から最後まで渦巻いている。そんな彼の知識のソースは、スマートフォンや漫画喫茶を通じて得られる範囲の知識です。
そして、「ムー」の仕事をしている編集プロダクションに居候する。帆高の情報ソースの貧しさと偏りが、彼をオカルト化させていくともいえそうです。
そのなかで帆高は陽菜という少女と出会う。陽菜もまた「現代的な」問題にがんじがらめになっています。貧困の問題です。
『天気の子』の設定から読みとれるもの
母親が亡くなり、一方で施設や児童相談所に保護されることなく弟を養っていくために、年齢を詐称してアルバイトをする。新宿・歌舞伎町のマクドナルドをクビになり、その流れで自ら望んで水商売に手を出そうとする。陽菜は社会のシステム不全による犠牲者として存在していますが、帆高が行うのは、陽菜の特殊能力をビジネス化することでした。
帆高は晴れ女である陽菜の能力を活かしたビジネスプランを考えるわけですが、陽菜の晴れ女の能力というのは、陽菜自身の身体と引き換えに発揮されます。晴れをもたらすたびに、その身体は次第に消えていく。帆高が加担するのは人身売買とも思えてしまうものなわけです。
『天気の子』の設定は、起業家精神からオカルト、貧困問題、人身売買まで、きわめて現代的なテーマを読みとれるものになっている。少数のグループによる思いつきとビジネス化が世界のかたちを変えるというのも、GAFA(グーグル、アップル、メタ〈旧フェイスブック〉、アマゾン・ドット・コム)やテスラなどに代表されるような、アメリカの起業家たちによる世界のかたちの変容について思わせます。
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注1 『天気の子』映画パンフレット、16ページ