その結果、『天気の子』と『君の名は。』は好対照といっていいような作品になります。『君の名は。』の主人公たちが古代から連綿と続くシステムの「器」でしかなかったことに比べると、『天気の子』の主人公である帆高の根本には主体性があり、なおかつ、その思いがきっちりと届き、叶うからです。その結果として「世界のかたちが変わる」くらいに。
そんな物語を描くことが『天気の子』の面白さであり、ある種の危うさでもあるように思えます。
『天気の子』の“純粋すぎるポジティブさ”
新海誠が考えた「議論を呼ぶ」部分は、作品の結末についてです。ひとりの少女の犠牲によって世界が通常のかたちに戻るという選択肢を否定し、むしろ世界など壊れてしまえ、と主人公が望むという結論こそ、新海誠が想定する「議論を呼ぶ」パートでした。
しかし本章では、それとはまた別の次元で、この作品全体から感じとれる態度自体について、議論してみたいと思います。それは、「現状肯定」的な態度です。
新海誠は常に、自分の作品が絆創膏のようになればいいと考えていました。日常生活でのつらさや心に傷を抱える人々に対して、癒やしや勇気を与えてくれるような作品を作りたいということを言っていたわけです。その結果、新海誠のアニメーション作品は、現状肯定的で、いまのあり方に批判的な部分はないものがほとんどでした。
『天気の子』では、そのような態度が凝縮されているように思えます。人間こそが世界を変えられる、という肯定的な態度が、最終的に自己啓発的かつカルト的なレベルにまで高められていくのです。この純度の上げられたポジティブさには、現代社会での「成功者」たちが持つような態度と共通するものが感じられるのです。
京都アニメーション放火事件の次の日…
完全に個人的な話をここで少しさせてください。本作の公開は2019年7月19日でした。その前日に、痛ましい京都アニメーションでの放火事件が起こりました。
アニメーション業界に関わる人間として、私自身もやはり非常に大きな心理的ダメージを受けながら、『天気の子』を観に行ったわけなのですが(この作品がもし、『君の名は。』のような儚さを前提とした作品であったとしたなら、より一層、厭世的な気持ちになっていたのではないかと思います)、その人間讃歌的な部分に非常に感化され、後押しされた気分になりました。
もちろん当たり前のことですが、『天気の子』はあの事件のことを念頭に置いて作られた作品ではありません。公開日の時期が重なったのは、偶然でしかありません。しかし『天気の子』には、それが偶然ではなかったかのように思わせるところがある。