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「突然膵臓がんと診断され、そのとき既にステージは4bだった」今は亡き作家による“最後の日記”

北大路公子が『無人島のふたり』(山本文緒 著)を読む

2022/12/20
『無人島のふたり 120日以上生きなくちゃ日記』(山本文緒 著)新潮社

 山本文緒さんが亡くなって1年余りが経つ。家族とごく親しい人たち以外には伝えられていなかったという病については私ももちろん知らず、突然の訃報にただ呆然とした。

 文緒さんが亡くなるちょうど1週間前、私は入院中のベッドで『再婚生活』を読み返していた。「私のうつ闘病日記」とサブタイトルのついたその本には、仕事も私生活も順調だった文緒さんを突如襲った心の病との日々が記されている。

 決して明るい内容ではないのに、何度も読み返したくなるのは感情に偏りがないからだ。悲しみも喜びも希望も絶望も、そのどれもが「人生」であるという等しさをもって誠実に綴られている。

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 病室で点滴を受け、これから半年近く続く大変な治療(と主治医は言った)とその先の日々を憂いながら、私は「また文緒さんの日記が読みたいなあ」とぼんやり思っていた。できれば今の、私と同じく歳を重ねた文緒さんの目に映る世界を見たかった。まさかそれがこんな悲しい形で実現するとは、当たり前だが考えてもいなかった。

「2021年4月、私は突然膵臓がんと診断され、そのとき既にステージは4bだった」

 文緒さん最後の日記の最初の一行である。治療法はなく、抗がん剤で進行を遅らせることしかできない。けれども、その抗がん剤は「地獄」のように辛く、一度受けたきりで緩和ケアへ進むことを決めた。さらりと告げられた事実に読者の足はすくみ、しかしすぐにそこから続く最後の日々に深く引き込まれていく。

 達観などできず、かといってジタバタもせず、体調の良い日には「この体調のまま2年くらいは持つ」のではと考え、「でもきっと違う」と思い直す。花を愛で、テレビを見て笑い、未来を失うことに苦しみ、そして妻を見送る夫の心情に涙する。

 日々移り変わる感情への眼差しはやはり等しく平らかで、そうではないとわかりつつも、文緒さんが望んだ「穏やかで、ほの明るい」境地が既に広がっているような気さえする。もちろんそう思わせるのは、作家としての力量の為せる業だ。

「頭が割れそうなくらい悲しいのにアマゾンの領収書を印刷した。それが生きるということ」

 一人の稀有な作家が最後まで見せた「生きる」姿が本書にはある。いずれ誰もが訪れる場所に向かって、静かに遠去かって行くその足取りを、私は決して忘れないだろう。

『再婚生活』で、ご主人のことを「王子」と書いていた文緒さん。「ふざけて呼んだら定着した」と教えてくれたが、一貫して彼のことを「夫」と記している本書の中で、「王子」とした箇所が一つだけある。胸がいっぱいになるその呼びかけに、彼が本当に文緒さんにとっての「王子様」だったのだと知った。あの時、笑ったりしてごめんなさい。

やまもとふみお/1962年神奈川県生まれ。OL生活を経て作家デビュー。『恋愛中毒』で吉川英治文学新人賞、『プラナリア』で直木賞、『自転しながら公転する』で島清恋愛文学賞、中央公論文芸賞受賞。21年10月13日に膵臓がんのため死去。
 

きたおおじきみこ/北海道生まれ。著書にエッセイ『ロスねこ日記』、小説『ハッピーライフ』など。最新刊は『お墓、どうしてます?』。

「突然膵臓がんと診断され、そのとき既にステージは4bだった」今は亡き作家による“最後の日記”

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