繰り返し描写される東日本大震災。そこに込められた意図は…
東北に住む者として東日本大震災を経験し、今作でもその日の記憶や影響は繰り返し描写される。
「『荒地の家族』は、一生活者の日常をリアルに表現できればいいなという思いがまずありました。震災については、主人公の祐治の日常から浮かび上がってくる風景や要素として、当然入ってきたというところです。小説のなかに震災を織り込むことによって、時とともに出来事が忘れられていってしまう流れにすこしでも抵抗できれば、とは思っていますが。たとえば本屋に来て何かおもしろい本はないかなと探すとき、大々的に震災をテーマにした本には、なかなか手を伸ばしづらいかもしれない。小説のかたちのなかに溶け込ませてあれば、まだ飲み込みやすいという人もいるんじゃないかという気はするので」
作中では、幾人もが原因不明の調子の悪さに悩んだり、実際に命を落としたりする。その様子が震災との因果関係の有無を明示せぬまま、ただそうあったこととして描写されていて、リアリティが増す。
「自分の周りにも、震災の後に不意に体調を崩したり、亡くなってしまった方はいます。それは震災とは関係ないのかもしれないし、なんらかの影響があるのかもしれない。どれだけ考えてもわからないことですね。そういったことはニュースで報じられたりはしないでしょうけど、小説のなかでなら掬いあげて考えることもできる。日ごろなかなか意識しないようなところまで、ちゃんと書きたいという思いはあります」
その際には、表現の細部にまで神経を張り巡らせて書く。今作では「震災」という言葉を一切使わず、「災厄」と呼ぶことを徹底していたりするのだ。
「『震災』『瓦礫』『津波』といった単語は不快に感じる読者もおられるかもしれないと思い、使わないようにしました。同時に、災厄という言葉を使うことによって、東日本大震災にかぎらない災害についても視野に入れられたらとも考えました」
端正な文章とリズム。影響を受けた作家は?
東北という舞台設定や災厄にまつわるテーマだけでなく、文章表現の妙にただ酔いしれることができるのも『荒地の家族』の魅力のひとつだ。
造園業を営む主人公の祐治が肉体労働にいそしんだり、去ってしまった妻の勤め先へつい顔を出してしまうことなどが繰り返し端正な文章で描写され、読み進むうち場面がどんどん印象づけられていったり、文章のリズムが病みつきになったりする。
「そうですね、繰り返すことの効果は意識しています。読む側にくどいと思われないよう、ギリギリの線に留まることに気をつけながら、ですが。それによって時間の流れをうまく表すことができたらと思いました」
佐藤さんの達意の文章からは、先行する作品の膨大な読み込みが感じられる。聞けばやはり、肉体労働の筋肉が熱を帯びて働く描写は中上健次の、淡々と続いていく日常を描き出す表現には小沼丹からの影響があるという。