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 実際にこの見解が影響して、「あの有名な大晦日のお笑い番組」も終了したとささやかれています。そして、「からだを張った芸をウリにして笑いをとってきた」ベテラン&中堅芸人さんたちは、あまり番組に呼ばれなくなってしまってます。けっこうこれが深刻で、食っていけなくなったり、引退を考えざるをえなくなっている芸人さんも多いと聞きます。

 コロナ禍、そしてテレビ出演者の若返り、そこに持ってきて「痛みを伴う笑いはNG」ということになってしまって、「オレたちはこれからどうやって生きていけばいいんだ?」といった感じに追い込まれてしまっているベテラン&中堅芸人さんたちのことを考えると、とても胸が痛みます。

 もちろん「いじめをなくす」というのも大切です。でも本当に「罰ゲーム」はいじめを助長しているのでしょうか? そして、いじめを助長しない工夫をすることはできないのでしょうか? もっと現場の事情に寄り添って具体的に考えていかないと問題の解決にはならないと思いますし、テレビにあまりにも「倫理的な模範となるべき」という役割を押し付けるのもちょっと違うと思います。

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 私の世代は『8時だョ!全員集合』のような、放送当時は「俗悪番組」とされていた番組を見て育ちました。でも、本当にドリフは俗悪だったのでしょうか? なんとなく私たちは「俗悪というレッテルを貼られた番組から人生を学んできた」のだと思うのです。

ザ・ドリフターズ ©文藝春秋

「まじめだけどつまらない先生の話」より「ちょいワルだけど面白い先輩の話」のほうが勉強になることも多いはず……テレビが果たすべき役割は「マジメな先生」ではなく「ちょいワルな先輩」でいいのではないか、と思えてならないのです。

「顔」も「体型」も「年齢」もネタにできない女性芸人

「痛みを伴う笑い」と並んで、あるいはそれ以上にテレビマンたちを「よくわからない基準」で困惑させているのが「フェミニスト」たちかもしれません。女性芸人たちの中には「顔」も「体型」も「年齢」もネタにできない……というしばりで苦しんでいる人たちも多いのです。

 性差別をなくすことや、男女あるいは性的マイノリティまで含めて「ジェンダー平等を目指すこと」はまったく悪くありません。むしろ社会はそちらの方向に向かうべきだと私も思います。しかし、ここでもテレビの制作現場は「では、具体的にはどうすればいいのでしょうか」と頭を抱えて途方にくれている、というのが現状です。

 たとえば番組で(特にアニメなどで)少し「美人」や「グラマーな体型の人」であることを強調したり、セクシーな衣装だったりすると、「ルッキズム」(外見至上主義)だといって非難されることになります。かといって女性の芸人が自分の容姿で笑いをとると、それはそれで「女性の容姿を笑いのネタにするのは不快だ」ということになり非難されます。

 たしかに「不要に女性の性的な部分を強調すること」や「美人だけを称賛して、そうでない人を価値が低いように扱うこと」はもってのほかです。でも、女性が自分の外見を長所として「武器にして」生きていくのは悪いことではないはずです。

「私は美人だ」と堂々と主張していいでしょうし、セクシーな服を着る自由ももちろんあります。また、そういう女性のことを男性が「素敵だ」と称賛する自由もあるでしょう。一方的に男性目線だけを強調するのが良くない、ということであって、女性目線と男性目線を等しく扱えばいいだけのような気もします。

 お笑いの場合は、他人の容姿や体型を馬鹿にして笑うのはダメでしょう。でも「自虐は笑いに直結する」わけですから、自らの容姿や体型とかを自虐のネタにして笑いをとることまで他人がどうこう言えるのか、は疑問点として残ります。「自虐の笑いを切り札として芸人で生活していた人」から、仕事を奪い取るのはどうなのでしょうか。