山岸 実はテレビはほとんど見ないのです。以前、紀州の徳川宜子さまと電話でお話ししたとき、「家の歴史と一般の人の歴史は、違うものだと考えています」とおっしゃり、「ああ、なるほど」と思いました。歴史上の人物というよりも、私たちにとっては血の通ったご先祖様。テレビドラマ、小説という次元とは違うように思います。
司馬遼太郎さんなどの小説でも大河ドラマでも、大変研究されていますが、結局はフィクションとなってしまいます。史実に基づく部分は沢山あると思いますが、徳川家が捉えている家の歴史とはちょっと違うところもあると思います。そういったテレビや小説と家の歴史という観点に接点をつけられれば、もっと立体的な歴史となるような気がいたします。
第5代当主になった経緯は
――山岸さんが慶喜家の当主になられた経緯ですが、第4代の慶朝さんが亡くなる際に、姪である山岸さんを指名されたんですね。
山岸 「アンクル」と呼んでいた慶朝叔父は、とにかくこだわりの強い人でした。コーヒー好きが高じて、慶喜が欧米の公使にふるまった珈琲を文献から再現しただけでなく、茨城のコーヒー屋さんに頼み込んで焙煎してもらい、「将軍珈琲」という名前をつけて売り出しました。自由人でこだわりの強い趣味人でもありました。カメラマンを仕事にしたのは、写真好きだった慶喜の血を引いたのかもしれません。
私は小さい時からとても可愛がってもらっていて、本当に心優しい人でした。でも叔父には徳川家当主に求められるような貫禄もなかったので、親族から見下されることもありました。確かに、見た目はちょっと頼りない感じでしたし(笑)。ですから慶喜家の当主として、叔父の考えなどはあまり真剣に取り上げてもらえなかったりして、自分が当主なのにと悔しい思いがあったのではないかと思います。
慶朝叔父は2014(平成26)年に、食道と咽頭に原発性のがんが2つもあることがわかりました。茨城県のひたちなか市に独り暮らししていたので、発病以来、私が毎週のように通い、名古屋の自宅と半々くらいの生活を送りながら看病していました。
がんは完治したのですが、虚血性心筋梗塞で、残念ながら2017年9月に「あとは美喜ちゃんよろしくね」という内容の遺書を残し、67歳で苦労の多かった人生の幕を閉じました。