1ページ目から読む
2/4ページ目

山岸 公爵だったご宗家と慶喜家が2トップ、尾張、紀伊、水戸の御三家に、田安、一橋、清水の御三卿。そのほか宗家別家、慶喜別家など12家ございまして、それぞれにご当主がいらっしゃいます。

 紀州のご当主は、私と同じく女性の徳川宜子(ことこ)さまとおっしゃり、紀州徳川家はお父様の代で墓じまいを済ませておられます。紀州歴代藩主のご墓所は海南市の長保寺にあるそうですが、現在のお墓はお寺にお守りいただいているようです。

たった一度、慶喜が孫を一喝

――慶喜について、お家に語り継がれているエピソードなどありますか。

ADVERTISEMENT

山岸 「怒りは敵と思え」という家康公の遺訓そのままに、物静かで滅多に怒らない人だったと聞いております。当時の町名から「第六天」(現在は文京区小石川)と呼ばれたお屋敷で暮らしていた晩年の話があります。

 かくれんぼをして遊んでいた孫たちの一人が木に登って隠れたところ、お付きの人たちが見つからないと必死に探し回って、大騒ぎになりました。そこへ木から下りてきた孫を、「周りの者に心配かけるでないっ!」と一喝したそうです。慶喜が怒ったのはそのときだけだった、という話を聞いたことがあります。

©杉山拓也/文藝春秋

――2020年に出版された『みみずのたわごと』(東京キララ社)という本は、お祖母さまの徳川和子さんが遺された手記と、山岸さんの思い出話で構成されています。やはり、普通の家とは違うしきたりがありましたか。

山岸 祖父の姉上君が高松宮様の喜久子妃殿下でしたから、高松宮御殿へお伺いできるのがとても嬉しかったのです。その際、母から、子どもは3つの言葉しか口にしてはいけないと言われました。お目にかかるときとお別れするときの挨拶は「ごきげんよう」。「ありがとう」は上から下へ向かう言葉だから使ってはいけないと言われ、「おそれいります」。「ちょっとすみません」と声をかけるときは「ごめんあそばせ」。御殿では大人の社会に入らせてもらうのだから、「分を知りなさい」と言われていました。

――ご先祖が主役の大河ドラマ『どうする家康』は、ご覧になっていますか。