作家生活が50年を超え、今年93歳を迎えた皆川博子さん。最新作『風配図 WIND ROSE』の舞台は12世紀のヨーロッパ、商人たちが結んだ都市同盟「ハンザ」の黎明期だ。
「私がハンザを知ったのは、小林秀雄訳の『ランボオ詩集』に収録されていた、『酩酊船』という詩がきっかけでした。当時18歳の私には〈ハンザの帆走船(ふね)〉という一節が何を意味するのか全くわかりませんでしたが、戦後の焼け野原の中、活字に飢えきっていた心に沁み込むように入ってきて、魅力的な言葉として忘れがたく記憶されていたんです」
そして、皆川さんは近年日本で立て続けに刊行された研究書を貪るように読み、「ハンザをテーマにした小説を書こう」と決意。2022年から雑誌で連載を始め、日本人には馴染みが薄い中世のスウェーデン、ドイツ、ロシアの風物を鮮やかに描き出していった。
「以前は作品の舞台は必ず取材に訪れたものですが、今は、元気なのは見た目だけ(笑)、さすがに難しくて。写真、イラスト、図説などの資料で補ったり、編集の方が代わりに現地に行ってくださったり。また、日本ハンザ史研究会の先生方にも、素人のこまかくて膨大な質問に丁寧にお答えいただくなど、大変お世話になりました。皆様のサポートがあって、なんとか書き上げることができました」
物語は、バルト海交易の要衝・ゴットランド島の浜に、一隻の難破船が漂着するところから始まる。積荷の所有権をめぐって、唯一の生存者であるドイツ商人は島民たちと「決闘裁判」を行うことに。重傷を負っている商人の代わりに闘いに名乗りをあげたのが、15歳の少女、ヘルガだった。
本書の主な語り手は、彼女を慕う義妹アグネや、富商に仕える完全奴隷(ホロープ)たるマトヴェイだ。彼らの目を通して、強い家父長制、宗教対立などの背景も鋭く描く。「弱い立場の人間は、強い人よりもかえっていろいろなものが見えていると思うから」と皆川さん。大飢饉に市長暗殺、その後の動乱が、彼らを待ち受ける。
「河竹黙阿弥は、調べて本当のことを書くのは作者の義務だが、そこに大嘘をまぜるのは作者の特権と言っています。それを利用しまして(笑)、調べてわかった史実とフィクションを織りまぜて物語にしています」
また、この物語は、表現の工夫に満ちている。時おり戯曲形式でシーンが展開され、ここぞという場面では詩歌が引用される。
「物語の勢いや流れのままに、このほうがいいなと思うことを自由に取り入れて、のびのびと書きました。例えば決闘裁判のシーンは、漫画で描いてもらったら面白いんじゃない? なんて、半ば真剣に話したことも。普通なら絶対ありえないような発想の自由を許してくださって、とても楽しかったですね」
皆川さんの執筆スタイルは若い頃と全く変わった。
「前は完全な夜型で、夕方から明け方まで書いていました。今は早起きですよ。日中は外出して、喫茶店で前の日の仕事を見直したり、ゲラをチェックしたり、資料を読んだり。それから軽いランチをとって帰ってくると疲れちゃって、ひと休みしているうちに、もう夕ご飯。ぼやっとしているとお風呂に入って寝る時間。だから、自分でも、一体いつ書いているのかしら? と不思議なの(笑)」
そう言いつつ、続編の執筆にも取り掛かっている。
「13世紀、北方十字軍とハンザ商人たちの物語です。ハンザ衰退まではまだまだかかりますが、体がもつかぎり、せめて最盛期までは書けたらと思っています」
みながわひろこ/1930年生まれ。ミステリ、幻想文学、時代小説など幅広いジャンルで活躍。直木賞、柴田錬三郎賞、吉川英治文学賞、本格ミステリ大賞、日本ミステリー文学大賞など受賞多数。2022年『インタヴュー・ウィズ・ザ・プリズナー』で毎日芸術賞受賞。